もっと最高の夢を
このほど、大学でアニメに関する論文を書いた。
書き終えて思ったのは、映像は文学と比べて言葉にしにくいなあ、ということ。
映像は言語じゃない。
それに引用ができない。
だから言葉で表現しにくいのは至極当然なことであろう。
作画とか、演出とか、音響とか、
「言葉で言い表しにくい部分」を、ブログでも何とか言葉にしようと努力を続けてきた。
でも、作画とか演出とか音響を言葉にしようとすると、
言葉は宙ぶらりんになってしまう。
結局は印象論で、上手い文章にはならない。
言葉で言い表しにくい部分に無理に手をつけようとすると、
文章が変になってしまう。
口を酸っぱくして、「音の置き方」が大事なんだよ、と言ってきたが、
うまく読み手に伝わったかどうか怪しい。
だから、内容が一番大事なんだと思う。
内容なら語れる。
そして、読み手と共有することができる。
この場合の「内容」は「脚本」とイコールじゃない。
アニメは大勢の人の汗と涙の結晶だ。
脚本のほかにも、声優や、コンテ・演出や、原画や、動画や、美術や、彩色や、選曲といった、数多くのセクションが内容に関わっている。
だから、どれか一つのセクションを過剰に持ち上げるのは変だ。
彼女と映画を観た後、喫茶店に入ったとする。
映画の感想を言い合うとする。
内容のことについて話すのが一番話しやすいのではないだろうか。
たとえば、『天空の城ラピュタ』について話すとする。
私が「初めのほうの線路上のアクションが良かったね」と言ったとする。
これでは会話があまり進展しない。
彼女が作画に多少なりとも敏感ならば話は成り立つだろうが、
単なる印象の投げ合いになってしまう。
「あのシーンがよかった」「このシーンがよかった」では、
実りのあるアニメ・トークとはいえない。
それは断片だけを話しているのであって、内容について語り合っているとは言えない。
作画について言及するだけでは、
「バルス!」について言及しているのと変わりない。
これなら、たとえば「『ラピュタ』に見る宮崎駿の文明観」というテーマに話を持っていくほうがいいのだ。
多少真面目な話になるが、彼女自身が持っている(宮崎駿とは違う)文明観が引き出せるかもしれないのだ。
テーマ論だと突っ込んだ話になるから会話が弾む。
これは議論になる。
内容に関する話をしたほうが、会話は弾む。
新たな意見も生まれる。
時には論戦にもなるが、それもまた楽しい。
たとえば私は、『カレイドスター』終盤の「そらとレイラの考えの相違」ということについてもう10年近く考え続けている。
ほとんど毎日だ。
これは内容にまつわる好例である。
終生考え続けるのは、見た目の印象よりも内容のことなのだ。
そう、作画・演出といった「見た目」よりも「内容」のほうが肝心なのではないだろうか?
かつて私は『インフィニット・ストラトス』の感想において、
「このアニメではヒロインの見た目が9割である」というような結論に至ったことがある。
しかし「セシリアかわいい」「シャルかわいい」と悶えるだけでは視聴者としての成長がない。
内容について語ることが肝心なのだ。
内容について考えれば考えるだけ、文章も書きやすくなる。
内容は言い換えがきくのだから。
だから、受け手はアニメに対し、内容を理解する態度が何よりも求められる。
このほど、大学でアニメに関する論文を書いた。
書き終えて思ったのは、映像は文学と比べて言葉にしにくいなあ、ということ。
映像は言語じゃない。
それに引用ができない。
だから言葉で表現しにくいのは至極当然なことであろう。
作画とか、演出とか、音響とか、
「言葉で言い表しにくい部分」を、ブログでも何とか言葉にしようと努力を続けてきた。
でも、作画とか演出とか音響を言葉にしようとすると、
言葉は宙ぶらりんになってしまう。
結局は印象論で、上手い文章にはならない。
言葉で言い表しにくい部分に無理に手をつけようとすると、
文章が変になってしまう。
口を酸っぱくして、「音の置き方」が大事なんだよ、と言ってきたが、
うまく読み手に伝わったかどうか怪しい。
だから、内容が一番大事なんだと思う。
内容なら語れる。
そして、読み手と共有することができる。
この場合の「内容」は「脚本」とイコールじゃない。
アニメは大勢の人の汗と涙の結晶だ。
脚本のほかにも、声優や、コンテ・演出や、原画や、動画や、美術や、彩色や、選曲といった、数多くのセクションが内容に関わっている。
だから、どれか一つのセクションを過剰に持ち上げるのは変だ。
彼女と映画を観た後、喫茶店に入ったとする。
映画の感想を言い合うとする。
内容のことについて話すのが一番話しやすいのではないだろうか。
たとえば、『天空の城ラピュタ』について話すとする。
私が「初めのほうの線路上のアクションが良かったね」と言ったとする。
これでは会話があまり進展しない。
彼女が作画に多少なりとも敏感ならば話は成り立つだろうが、
単なる印象の投げ合いになってしまう。
「あのシーンがよかった」「このシーンがよかった」では、
実りのあるアニメ・トークとはいえない。
それは断片だけを話しているのであって、内容について語り合っているとは言えない。
作画について言及するだけでは、
「バルス!」について言及しているのと変わりない。
これなら、たとえば「『ラピュタ』に見る宮崎駿の文明観」というテーマに話を持っていくほうがいいのだ。
多少真面目な話になるが、彼女自身が持っている(宮崎駿とは違う)文明観が引き出せるかもしれないのだ。
テーマ論だと突っ込んだ話になるから会話が弾む。
これは議論になる。
内容に関する話をしたほうが、会話は弾む。
新たな意見も生まれる。
時には論戦にもなるが、それもまた楽しい。
たとえば私は、『カレイドスター』終盤の「そらとレイラの考えの相違」ということについてもう10年近く考え続けている。
ほとんど毎日だ。
これは内容にまつわる好例である。
終生考え続けるのは、見た目の印象よりも内容のことなのだ。
そう、作画・演出といった「見た目」よりも「内容」のほうが肝心なのではないだろうか?
かつて私は『インフィニット・ストラトス』の感想において、
「このアニメではヒロインの見た目が9割である」というような結論に至ったことがある。
しかし「セシリアかわいい」「シャルかわいい」と悶えるだけでは視聴者としての成長がない。
内容について語ることが肝心なのだ。
内容について考えれば考えるだけ、文章も書きやすくなる。
内容は言い換えがきくのだから。
だから、受け手はアニメに対し、内容を理解する態度が何よりも求められる。