こんにちは。おはぎです。
今回はいわゆる原作なしのオリジナルアニメについて
なぜ作品のあり方が自己言及的になるかについて語ります。
思いついたのはまっつねさんのこの記事。
まっつねさんはTARITARIの感想にて
合唱部を本作の制作会社であるP.A.WORKSであり
声楽部をProduction.I.Gとなぞらえています。
私も合唱部はPAだろうと見ていました。
というのも花咲くいろはの頃から、喜翆荘はPAの写し鏡である
もしくはああいう集団/組織になりたいという見方をしていたからです。
よって今回のTARITARIも、合唱部をPAと見ていました。
ここで思ったのは、なぜ声楽部=主人公達の集団=合唱部が制作会社になぞらえられるのか。
そしてアニメに出てくる集団/組織が制作会社の気持ちというか何かを反映してしまう言説は
実は前でも起こっていたようにも思えます。
例えば新世紀エヴァンゲリオンのネルフ。
放映当時、ネルフのあの碇司令を中心にした独裁的なシステムはガイナックスではないか。
もしくは庵野監督が私淑した宮崎駿監督のスタジオジブリなのではないかという
話題を口にするのを本で見たような気がします。
そもそもガイナックスのアニメ初作品である王立宇宙軍がそもそも自己言及的な作品です。
物語の大筋は、若き青年たちが有人衛星を打ち上げる、というものですが
これも若き制作スタッフがアニメを作りますということに簡単に置き換えられます。
またメインスタッフである山賀監督や岡田斗司夫さんも
自分たちの立ち居地や状況を作品に反映しているような発言をしていたと思います。
以上のように、全てのオリジナルアニメがそうだとは限りませんが
オリジナルアニメには制作会社の立ち居地・状況・会社として目指したいものが
素直に反映されている作品もあるのです。
この考えを機動戦士ガンダムに当てはめると
補給を満足に与えられず戦線を点々としつつ、内部でいざこざがありながらも
何とか生き延びていくホワイトベース隊は、
当時の制作体制が厳しかったといわれる日本サンライズ(現:サンライズ)の気分を
表していたともいえるのかもしれません。
ホワイトベース隊=サンライズ1スタ、地球連邦=サンライズ上層部みたいな。
ジオンと戦うのはアニメ制作に置き換えられるのかも。
他にもオリジナルアニメと位置づけられるかどうかはわかりませんが、
ストライクウィッチーズも、生まれ・育ち・価値観の違う少女達が一致団結して
ネウロイという未知の敵に立ち向かうという展開も、
GONZOのスタッフと当時の高村和宏さんを中心としたガイナックス所属スタッフが
一致団結してアニメを作るという例えもできるのかもしれません。
ではなぜこうしたスタッフ・制作会社の気分が反映されてしまう作品もあるのか。
これは富野由悠季監督が1998年のニュータイプ6月号の付録
「まるごと富野」で綺麗簡潔に以下のように述べています。
つまり作品を作るときには、作り手の生の状況や感情が色濃く出てしまう。
特にオリジナルアニメは企画から作り手側が直接的に関わる濃度が高くなるので
作品が現実の自分のポジションと無関係ではいられなくなるのでしょう。
それがゆえに作り手=作品とのシンクロ率が高くなって面白い作品が出てくる側面もあります。
もちろん、この富野監督の発言が全てではありません。
ただ作り手側の状況や空気が色濃くでる作品は存在して
その作品の読み解き方に、組織/集団を制作会社に置き換えるという見方は
各作品の新しい発見につながるのではないでしょうか。
今回は以上です。
今回はいわゆる原作なしのオリジナルアニメについて
なぜ作品のあり方が自己言及的になるかについて語ります。
思いついたのはまっつねさんのこの記事。
まっつねさんはTARITARIの感想にて
合唱部を本作の制作会社であるP.A.WORKSであり
声楽部をProduction.I.Gとなぞらえています。
私も合唱部はPAだろうと見ていました。
というのも花咲くいろはの頃から、喜翆荘はPAの写し鏡である
もしくはああいう集団/組織になりたいという見方をしていたからです。
よって今回のTARITARIも、合唱部をPAと見ていました。
ここで思ったのは、なぜ声楽部=主人公達の集団=合唱部が制作会社になぞらえられるのか。
そしてアニメに出てくる集団/組織が制作会社の気持ちというか何かを反映してしまう言説は
実は前でも起こっていたようにも思えます。
例えば新世紀エヴァンゲリオンのネルフ。
放映当時、ネルフのあの碇司令を中心にした独裁的なシステムはガイナックスではないか。
もしくは庵野監督が私淑した宮崎駿監督のスタジオジブリなのではないかという
話題を口にするのを本で見たような気がします。
そもそもガイナックスのアニメ初作品である王立宇宙軍がそもそも自己言及的な作品です。
物語の大筋は、若き青年たちが有人衛星を打ち上げる、というものですが
これも若き制作スタッフがアニメを作りますということに簡単に置き換えられます。
またメインスタッフである山賀監督や岡田斗司夫さんも
自分たちの立ち居地や状況を作品に反映しているような発言をしていたと思います。
以上のように、全てのオリジナルアニメがそうだとは限りませんが
オリジナルアニメには制作会社の立ち居地・状況・会社として目指したいものが
素直に反映されている作品もあるのです。
この考えを機動戦士ガンダムに当てはめると
補給を満足に与えられず戦線を点々としつつ、内部でいざこざがありながらも
何とか生き延びていくホワイトベース隊は、
当時の制作体制が厳しかったといわれる日本サンライズ(現:サンライズ)の気分を
表していたともいえるのかもしれません。
ホワイトベース隊=サンライズ1スタ、地球連邦=サンライズ上層部みたいな。
ジオンと戦うのはアニメ制作に置き換えられるのかも。
他にもオリジナルアニメと位置づけられるかどうかはわかりませんが、
ストライクウィッチーズも、生まれ・育ち・価値観の違う少女達が一致団結して
ネウロイという未知の敵に立ち向かうという展開も、
GONZOのスタッフと当時の高村和宏さんを中心としたガイナックス所属スタッフが
一致団結してアニメを作るという例えもできるのかもしれません。
ではなぜこうしたスタッフ・制作会社の気分が反映されてしまう作品もあるのか。
これは富野由悠季監督が1998年のニュータイプ6月号の付録
「まるごと富野」で綺麗簡潔に以下のように述べています。
作品は現実の自分のポジションと無関係ではないですね
つまり作品を作るときには、作り手の生の状況や感情が色濃く出てしまう。
特にオリジナルアニメは企画から作り手側が直接的に関わる濃度が高くなるので
作品が現実の自分のポジションと無関係ではいられなくなるのでしょう。
それがゆえに作り手=作品とのシンクロ率が高くなって面白い作品が出てくる側面もあります。
もちろん、この富野監督の発言が全てではありません。
ただ作り手側の状況や空気が色濃くでる作品は存在して
その作品の読み解き方に、組織/集団を制作会社に置き換えるという見方は
各作品の新しい発見につながるのではないでしょうか。
今回は以上です。
私もエヴァは自己投影的な作品であると思います。
庵野監督が扱った実存哲学を基にしたテーマや、一連の記号演出などは、
まんま出身である大阪芸大のカリキュラムにありますからね。
それが監督自身の人生経験と結びついて作品化した事は想像に難くありません。
角川が予算をケチった事で、逆に監督のやりたいように出来たんでしょう。
これは宮崎作品も同じ事が言えるんじゃないかと思います。
例えば『ポニョ』では宮崎駿監督が自身をフジモトに投影して子離れを、
『ゲド』では吾朗監督がアレンに投影して親離れをする話のようにも思えますし。