どうもご無沙汰しております。
ブログの方、更新停止状態ですみません。

今期の新番組は、まだあまり観れていないのですが、今日、『となりの怪物くん』というアニメの第一話を視聴しました。
的を射た意見ではないかもしれませんが、正直な感想を書かせていただくと、観ていていささか「ぎこちなさ」を感じました。
この「ぎこちなさ」の原因はなんだろう、と考えたところ、原作漫画の問題かもしれませんが、「ストーリーを成り立たせること」を意識しすぎて空回りしているのではないか、という推論に行き着きました。

いささか、この作品はストーリーを構築することに囚われすぎているのではないか、という印象を持ちました。
原作者が、ストーリーを頭の中で考えすぎているような気がします。
あるいは考えたストーリーを短い文章に言い換えているのかもしれません。
または細かいプロットに仕立てあげて、それをもとに画を作っているのかも知れません。

しかし、頭だけで考えた創作は例外なくつまらないし、
言い換えが簡単に効いてしまう筋書きの創作も、
プロットを練りすぎた創作もまた然り、です。

漫画やアニメイコールストーリーではないのです。ついつい漫画やアニメはお話ありき、と我々は思ってしまいますが、漫画やアニメがストーリーと「同義」ということはありえません。

描写の積み重ねが創作です。アニメにおいても、「描写」がキモであるといっていい。いかに自然に、自然な描写ができるか。アニメの価値はこれに集約されるといってもいい。
ストーリーへの過剰な意識、プロットの作り込みすぎが、自然に自然な描写をすることを妨げてしまっていると、現行のテレビアニメを観ていて時折思うのです。

『交響詩篇エウレカセブン』というアニメが、むかし放送されていました。
エウレカは異様に作りこまれたアニメでした。その作りこみ具合は理解できました。しかしわたしは、エウレカに対しても「ぎこちなさ」を感じていました。
「頭でっかちなストーリーとキャラクターだ・・・・・・」こう思ったのです。
良く言えば計算づくですが、悪く言えば、図式的。そんなストーリーとキャラクターでした。
キャラクターもストーリーもわたしには図式的すぎて、エウレカの画面の描写が不自然に感じられました。
少しずれますが、昨今のSF・ロボットオリジナルアニメのほとんどは、図式的なキャラクターやシリーズ構成から抜け出せていないような印象を抱きます。
(まあそれはまた別の話なので、次の機会に詳細に書きましょう・・・・・・)

わたしは今年のアニメでは、『夏色キセキ』がとりわけ好きです。
ひと言で言うと、描写が自然体だからです。
もちろん全体の構成の枠組みなどはきちっと決められていたと思うのですが、ストーリーに対する気負いがないのです。
『夏色キセキ』は、ストーリーよりも描写が先にあったアニメだと思います。
ついつい我々は創作において、ストーリーを絶対視してしまいます。しかし時には、ストーリーに描写が勝ることもある。わたしはそう考えています。

小説の執筆にしても、脚本の執筆にしても、ようは身体活動です。
頭の中で考え続けていても筆は進みません。
理想は、弾ける様に言葉が浮かんでこないとだめなのです。
ひとりでに筆が進んで行かないようじゃないとだめなのです。
構成を図にしたり、プロットをガチガチに固めることが、「自然に描く」という創作の上で大事な行為を阻害しているのではないかと思います。
そして肝心の自然に描写する、という技術は、これはもう身体で覚えるしか無いと思っています。

最近は図書館に入ると、一冊小説を読んでから帰るようにしています。
ル・クレジオ、バルガス=リョサ、ガルシア=マルケス、カルヴィーノ、ホフマンスタール、こんな作家を読みました。
すべては文章執筆のための体力づくりです。

「描写」という創作で一番大事なことを身体に染み込ませるには、大量に創作に触れるしかないのではないか。
わたしはそう考えています。


最近のわたしのアニメに対する最大の関心はこの「描写」という要素です。今後もこのテーマを考え続け、新たな書き物が生み出せたらなあ、と思っています。