わたしがアニメを考える上でいつも気にしている放映枠と音の置き方は、ヒトの生命のリズムと密接に関わっている。
たとえば、音の置き方。
セリフをどう挿入するか、どこでどんなBGM、効果音を使うかということは、人間の生理感覚の問題と不可分である。
あたりまえだか、アニメの音を支配するのは人である。
スタッフが、音の置き方を決めるし、視聴者がその作り上げた音を聞き取る。
いわば、スタッフと視聴者の間で「音のキャッチボール」をしている。

どこでどんな音を置くかは人間の裁量に委ねられる。
そうして出来上がったアニメの音の置き方を感じ取るのは、ほかでもない、視聴者のわたし達だ。
ここでわたしは、スタッフがどんな意図で音を置いているかというよりも、視聴者が音を感じ取る、いわば視聴者側のスピリチュアルな部分に着目したい。
視聴者が、視聴者固有の生理感覚で、アニメの音を捉える。
独特のテンポ、リズムを。BGMの生命力を。

つまらないアニメの音の置き方には、生命が宿っていない。
音の置き方に生命のリズムが感じられない。
アニメ作品は人工物ではない。
優れたアニメ作品は有機体だ。
つまらないアニメになると、無機的な音の置き方だし、いきものの匂いが感じられない。
これは完全にスピリチュアルな問題である。
しかし、本来アニメ作品がいきもののようなものでなければならない以上、ヒトの生理感覚と関連づけてアニメを考えることは避けて通れない。
感性、直感だけではアニメは語れない。されど感性、直感を抜きにしてはアニメは語れない。

おもしろいアニメ、つまらないアニメは、ある程度音の置き方で判断できる。
おもしろいアニメの音の置き方は、活き活きとしてる感じがする。
つまらないアニメは何から何まで生命力が感じられないが、その原因は音の置き方によるものが大きい。



放映枠についても、生命のリズムとつなげて考えられる。
あたりまえだが生活の中にテレビアニメはある。
テレビアニメは、テレビ番組として、生活の中に溶け込んでいる。
個々にとってそれが余暇であるにしてもないにしても、日々の生活の中でテレビアニメを観ている。

テレビアニメを規定するのは放映枠である。
その理由を説明し始めるとものすごく長くなるから、ここでは長くは書かない。
だが、テレビアニメはテレビ番組である以上、放映枠の問題は避けて通れない。

テレビアニメは「できるだけ」リアルタイムで観るべきだと思う。
スポーツ観戦と同じで、ライブ感を尊重したい。
深夜アニメをリアルタイムで観るのはつらいけど、できるだけナマで観たい。

関弘美さんが、かつてこんなことをおっしゃっていた。

(聞き手:小黒祐一郎)朝と夜で作品の作りが違うんですか。
(関)全然違います。例えば夜だと窓を閉めていることが多いですよね。それなら番組中でBGMの微妙な音楽の使い方をしていても、その演出的な効果がはっきりと出るんですよ。ところが、日曜の朝で色んな日常の音が入ってくると、そんな音の付け方は無駄かもしれない。

(小黒祐一郎著 『この人に話を聞きたい』飛鳥新社  136ページより引用)

録画でなく、リアルタイムで観る場合に限った話ではあるが、やはり朝には朝、夜には夜の番組の作り方があるらしい。
放映枠がひとびとの生活に合わせているのだ。

音の置き方の話と同様、人の生理感覚が放映枠の問題と密接に関わっているのがわかる。
人のライフサイクルと、テレビアニメの放映枠が持つ性質は深く関わっているのは間違いない。

朝アニメには朝アニメの息遣いが、深夜アニメには深夜アニメの息遣いが聞こえる。



これまで、アニメ作品を単なる商品/人工物であると捉えていた方もいるかもしれないが、その捉え方は間違っている。
アニメ作品は生きている。
つまらないアニメには、生命力が感じられない。
優れたアニメには、ヒトの生命のリズムが聞こえてくる。