この記事は先日投稿した「感想素人のわたしと一緒によりよい感想の書き方を考えよう!」の続編的な位置づけになります。
今回は、アニメ作品の1話に込められた「意味の含有率」と、アニメ作品に個々人が向ける「視線」の問題について考えます。
意味の含有率とは簡単にいえば内容の密度、個々人の視線とは簡単にいえば作品の捉え方、切り取り方のことです。 
・テレビアニメの1話分にはたくさんの意味が込められている

ほとんどのテレビアニメは1話30分です。
正味23分ほどですが、これが長いか短いかはその人次第になるでしょう。
ただ、長編映画と比べると短い時間です。
しかし、この20数分間に、いくつかは素通りしてしまうほど、 たくさんの情報が詰め込められているのです。

一回で理解できる人なら別ですが、わたしは何回か繰り返し観ないと1話分の全貌がつかめません。
それでも情報をいくつか取りこぼすことがあります。
登場人物の情報、伏線、世界設定、小ネタ・・・・・・
アニメは小説や漫画と比べて立ち止まることができないので、1回で内容を把握するのが難しいことがあります。
いわば描写が素通りしていくのです。

「アニメに無駄な描写などない」とわたしは思っています。
どんなくだらない描写でも、提示したからには必ず意図があるはずです。
だから本来早送りしていい、飛ばしていい場面などないはずなのです。
小説のつまらない部分を読み飛ばす人もいますが・・・・・。
本来アニメは飛ばさず、よそ見せず観るものです。

・すべてを理解する必要はない、そこに個性が出る

しかし、です。
アニメ作品が提示する情報のすべてに付き合っていたら、時間がいくらあっても足りなくなります。
料理は残さず食べろ、と口酸っぱく言われたものですが、アニメに関しては部分的に「食べ残し」があってもいいのではないでしょうか?
作品のすべてを理解する必要はない、と言われたら気が楽になります。

だいいち、極端な例ですが、すべてのブロガーがそのアニメの100%を理解したとしたら感想が似通ったものになってしまいます。
解釈は無限です。 
解釈という、個々人の理解の仕方にブロガーの「個性」が出ます。
そして前にも書いたとおり、ブログは個の表現なのです。

受け手が作品に向ける視線は千差万別です。
どこが琴線に触れるかは人それぞれです。
どんなに好きな作品でも、すべての要素に惹かれると問われたら疑いがあるでしょう。
そもそも、作り手も作品の1から10までを必ずしも理解してもらう必要はないと考えているのではないでしょうか。
あまりに浅い理解は受け手にとっても作り手にとっても不幸ですが、一定の理解の上に個々人の解釈を加えていくとうのがベストのように思います。

・結論

アニメ作品は繰り返しの鑑賞に耐えますが、 すべての要素に付き合っていたら時間も体力もいくらあったって足りなくなります。
コストを節約するためにも、独自性を出すためにも、自分自身の作品に向ける眼差しを尊重する必要があります。
作品は受け手に開かれています。
ひとつの作品に関わる時間削減のためには独自の視線によって作品を切り取る事が必要であり、それによって自ずと書き手の個性も出てくるものだろうと思います。