梶井基次郎の短篇集を、毎日少しづつ読んでいる。文章がすごくきれいだ。この人以上に日本語が上手い人なんていたのだろうか、というふうな錯覚に襲われる。日本語が美しい。
梶井の小説は文章であらわす芸術という意味においてまさに「文学」であり、映画、漫画、そしてアニメといった表象文化にはない「深み」をたたえている。
梶井の文学のことばは流れにたゆたうようで、 われわれは味読はするもののその味わいを言語でうまく言い表せない。
優れた文学には言い換えができない深みがある。

さて、アニメに文学のような深みはあるだろうか?
もし今はないとしたら、この先そういう深みは可能だろうか?

残念ながら、アニメ作品で文学作品のような深みに到達した作品は、ほとんどないように思う。
映像詩のようなアートアニメーションは知っているものの、それはアニメではなく「アニメーション」だ。
とくにTVアニメでは通俗的な番組が大勢を占めている。エンターテインメントに徹している。
ただ、過去には見つからないだけで、これから出てくる/作れる可能性はある。
そもそも、文学とは何か、文学の深みとは何か、そして芸術とは何かという問題は立ちはだかるのだが・・・・・・。

文学の愉しみを多少なりとも知りつつあるわたしは、アニメにも文学のような深みを導入できないものか、という願望を持ち始めている。
深みという意味において、今のところアニメは文学に勝てていない。 

もちろん、墓まで持っていきたいような、「文学なんか目じゃない面白アニメ」もある。
少数の優れたアニメ作品の、文学にはない独創性やテーマ性を、わたしは知っている。
「それを具体的に説明してくれよ」
そう言われたら答えてあげたいが、ここではページ数の都合があるので、「アニメの素晴らしさ」はおいおい伝えていくつもりでいる。
 
「アニメなんか目じゃない面白文学」ももちろんあるのだから、
アニメと文学、そしてその他の芸術はおあいこで、 
コンテンツ同士が相互に影響を与え合えばいいのである。
わたしは、アニメも、漫画も、ゲームも、映画も、文学も、絵画も、音楽も、 絶対視しない。
文化は相対的だ。
もはや相対主義者に出番はないかもしれないが。

アニメと文学、お互いにフィードバックの共犯関係を作って欲しいものだ。 

アニメに足りないものは、真の意味で大人向けの作品だろう。 
美少女アニメが真に大人向けなわけがないのだ。
別に18禁描写などなくとも、ある一定以上の年齢にならないと感じ取れないような「深み」をアニメで表現できないものか?

文学の弱点とは何だろう。
常々考えていることは、ある意味、文学は児童文学に負けている・・・・・・ということ。
児童文学には、純文学作家が忘れたものが詰まっている。
そういうジュブナイル性を、アニメもまた担保している。
例えば「学園戦記ムリョウ」。
あれはジュブナイルSFにカテゴライズされるだろう。
ムリョウに、中学1年で出会えてよかった。
文学にはアダルトな深みがあるが、アニメには思春期にしか見えないものがある。
児童文学、ヤングアダルト小説とアニメは相性がいい。
児童文学や漫画/アニメ的想像力を、純文学にも取り込めないものか?
学園戦記ムリョウみたいな「純文学書きおろし特別作品」があってもいい。

要するに、アニメと文学、お互いに足りないものを補いあえばいいのだ。
例えば、アニメには文学から「大人な味わい」を、文学にはアニメから「ジュブナイルと夢」を。
これは他のコンテンツの関係にもいえる。
コンテンツは互いに手を取り合うべきなのだ。