先ほど東京MXテレビで放映された『たまゆら hitotose』を観ていて、保坂和志さんという小説家が、『書きあぐねている人のための小説入門』(中公文庫)という著書の中で、「創作に『地方』を持ち込むのもひとつの方法」というようなことを書かれているのを思い出した。

最近では地域密着型のアニメも多いが、それでもアニメの舞台と言ったら都会、それも東京周辺が定番である。
都会は標準化された土地だ。
標準語で、物事のほとんどが標準的。
そこにはたして本当にドラマは生まれるのか?
唐突だが、わたしたちは北半球に住んでいる。
当然ながら、文化というものは北半球のものが標準である。
海外の輸入にしても、アメリカやヨーロッパの音楽だったり、翻訳小説だったり・・・
北半球と南半球では、気候や文化、社会はまったく様相を変える。
北半球の人間が、異質なものを知るには、極論すれば南半球のものに触れるしかない。
だからコロンビアやアルゼンチンの文学を読んだり、レゲエを聴いたりする必要性があるのだ。

 いささか話が壮大になってしまったが、上に述べたことは日本の日本海側/太平洋側の関係にも敷衍できるのではないだろうか。
近年、PAワークスが『true tears』『花咲くいろは』で北陸地方を舞台にし、広く受け入れられている。
おそらく、太平洋側の都会で育った人間にとっては北陸の田舎の風景は興味深く映ったのではないだろうか。
太平洋側の人間にとってはPAワークス作品の風景は異質なものだが、日本海側で生まれ育った人間にとってはどこか懐かしいものだ。

わたしは高校時代まで山陰地方で育った。
山陰地方の冬は厳しい。
「裏日本」という俗称の通り、山陰地方と北陸地方の気候は似ていると思う。
だから、true tearsや花咲くいろはの風景はどこか懐かしい。

『たまゆら』は、太平洋側で育ったひとにとってはもしかしたらピンと来ない作品かもしれない。
山陰地方出身のわたしにとって、『たまゆら』の舞台である山陽地方は身近ではあるが異質な地方だ。
山陰地方は長く厳しい冬があるが、山陽地方は概して温暖だ。
日本海側で育ったわたしにとって、山陽地方の風景はまぶしい。
日本海側の人間にとっては憧憬を感じる作品なのだ。


アニメに「土地」を取り入れるということ。
それは、創作に異質なものを取り入れるということだ。
異質なものとの出会いから芸術の感動は生まれる。
標準語の標準化された世界の作品からは、ドラマはなかなか生まれてきにくいと思う。
そこには「風景」がない。
『たまゆら』の竹原のように、電車が1時間に1本しか来ないような土地をあなたは想像できるだろうか?
そこは同じ日本であっても異質な世界なのだ。

北半球の冬の厳しさを知りたければ、ロシア文学を読めばいい。
南半球の酷暑を知りたければ、ラテンアメリカ文学を読めばいい。
脚本家にとって、それらは創作のヒントになる。

ロシア文学やラテンアメリカ文学やらは極端な話にしても、異質なものへの「違和感」が芸術鑑賞の原動力になるのは間違いないので、アニメは田舎をもっと積極的に舞台にすればいいと思う。
それは別に海外や宇宙である必要ではなく、国内にも「風景」になるに足りる場所はまだまだ眠っているように思う。 

広島県竹原に取材した『たまゆら』がアニメで「田舎」を発見するきっかけになれば、これほど本望なことはない。