どうもこんにちは。アニプレッションの中ではもはや存在感の在って無いようなuhdです。

あんまりこちらで記事を書かない日々を続けていたら、最近夜風さんからの、文字通り風当たりが強くなっているような気がしてきました。私は、自分のブログでは毎日(という目標で)コラムを書いていますが、この前それ用に用意した文章が若干長くなりまして、ちょっとコラムには長すぎるけれども途中で切りたくはないと思ったものですから、丁度いいこっちに載せることにしようということで、この度久々の寄稿になりました。

一番悩んだのはタイトルです。結局、こんなタイトルになりましたが、中身はどうでもいいことを書き連ねただけです。タイトルから中身を想像してはいけません。アニメ作品と同じです。

 追記:あれ、このブログは文頭1マス空けるが反映されないぞ?段落替えもいまいいちうまくいってない? ・・・面倒なのでもうこれで出します。ライブドアブログなのが不運だったということで。

私は日頃は法学に携わっていることが一番多いです。中でも最も力を入れているのは憲法関係です。憲法が自分の人生にどれだけ役に立つかというと、生活面ではそれほどでもないのでほどほどにしなければならないのですが。

さて、これが法学以外の分野でも同じなのかどうかは知らないのですが、法学の研究者が日頃やっていることは、アニメブロガーと似ていることが多いように感じられます。特に憲法学は(研究者によりますが)哲学的性格を比較的多く含んでいますから、ますますそのように感じられます。

アニメブログでは、これまたいろんな方がおられますが、アニメの各話における描写や構成について様々な解釈を展開したり、アニメの在り方について考えを巡らせたり、哲学や文学的素養を生かして高度な(時として自分だけにしか通用しないような)論述を展開したりしています。法学の研究も似たようなものでして、そこにある法律の条文の解釈についてああでもないこうでもないと議論を展開したり、法律の上あるいは条文の奥にある哲学的な要素について論理を組み立てていったりすることが多いです。時に、他人にはよく分からないことになることも似ています(笑)

一番似ているのは判例の解釈ではないでしょうか。日々新しいものが出てくる最高裁判所及びその他の裁判所が出す判決の意味について、研究者はさまざまな解釈を展開します。その判決・裁判が歴史上どんな意味を持つかだけではなくて、まさに裁判所はどういうつもりでこの判決を出したのだろうか、という裁判所の意図の解釈をバラバラに展開することもあります。答えがひとつになることなど、まずありません。アニメとそれに対する感想・考察も似たような関係にあります。放映された作品の解釈をあれこれと展開したり、また制作者の意図などを考えたりします。

最も似ている部分は、まず正解が出てこないということです。部分的には1つの正解が出たとしても、全体としてすべての解釈が同じ方向になるということはありません。そしてそれは、作者が自分で意図を説明したとしてもそれが正解になるわけではない、というところで最も顕著になります。すなわち、アニメでは、たとえ制作者が「この描写はこういう意味だったんです」と言っても、それが直ちに「正解」になるということはありません。あくまで有力な解釈の一つにとどまり、場合によっては、制作者は意図通りに描写できていないとか、制作者は自分で自分の描写の意図を把握出来ていないとか、あるいは、すべての作品は作られた瞬間に制作者の手を離れて独自の存在になるから受け手が解釈するとき制作者の意図はもはや関係ない(言い換えれば作品及び作品の内部要素は制作者を超越する)と言われることがあります。


判例や法律の解釈も同じです。ある判決が出たときに、その判決文の作成に大いに寄与する裁判所調査官(という役名ですが、裁判官の中でも特に優秀な人が勤める役職です)が解説を書くことがありますが、最高裁判所の意図を説明したその解説もあくまで解釈の材料に過ぎません。また、裁判官自身が(引退するまでまず話したりしませんが)こういうつもりでした、と言ったとしても、それが判例解釈の正解になるわけではありません。研究者も、さらにはその判決が出た後の最高裁判所自身も、そういったものにとらわれずに判決文の意味について解釈を展開するのです。法律の条文の解釈も同じで、条文の意味についてよく揉めたりしますが、その時に「じゃあ作った人に聞けばいいじゃないか」で解決することは絶対にありません(大変有力な根拠になることはありますが、全くそれだけで説得力を持つことはまずありません)。作った人(起草者とか草案担当者と言われます。また、似たようなものに立法者意思というものがあります)が「これはこういう意味です」と言ったとしても「そうですか。でもこれはこう考えるべきです」と、やはりそれぞれの解釈が展開されます。裁判所も同じことをします。

つまるところ、法学の研究者は、判例や法律に対して自分たちの考える解釈を日々考え議論し展開しているのです。どうでしょう、日々アニメについて百花繚乱の解釈を展開しているブロガーと似ているようには思われないでしょうか。私は時に法学の論文を読んでいると感想ブログを読んでいるのと同じような気分になります(もちろん、法学論文のほうが圧倒的に長くて難易度が高いわけですが)。逆に言えば、裁判所の出した判決の意味について想像も交えながらの解釈を見ると、学者先生もそんなにアニメブロガーと変わらないんだなあと妙な親近感(?)を持つこともあります。

そう考えると、法学の研究は、その日々の研鑽が業績・功績として膨大な書物や法律として残り、法律無くしては成り立ち得ない現代社会に大きく貢献しているわけですから、アニメブログで解釈を展開するということは、実は非常に重大で有意義なことなのではないかと思われてくるのです。ネット上で展開される多くの解釈の積み重ねが、将来のアニメの発展に大きく寄与する…こともあるかもしれません。

…ところで完全な余談ではありますが、憲法学の学者先生の中にもアニメ関連の話題に少なくともそれなりに触れられている先生もいたりします。時々専門誌などを読んでいるときに突然古手神社やら涼宮ハルヒやら出てくると吹き出しそうになります。
今日はこれにて。