前回は、唯の「放課後です」発言について取り上げましたが、今回は多くの方があれこれと思案を巡らせた、あずにゃんが最後の場面でただ一人涙を流さなかった場面について、解釈の筋道を検討したいと思います。あくまで筋道を検討したいというのであって、解釈を検討するわけではないというのが細かいようで大事なポイントであります。

 本当は、次の話が始まるまでに記事を掲載したいと思っておりましたが、力及ばず、結局21話が放送されてしまいました。すでに話題性が失われつつあるかもしれませんが、拙稿をお読み頂ければ幸いです。
 まずは、多くのブログ執筆者がいかように考えておられたか、勝手ながらいくつかここに引用させていただきたいと思います。

・梓は、そんな先輩たちを優しく見つめています。彼女はもっと前から、この日が来ることを覚悟していたので、先輩たちよりは冷静ですね。(メルクマールさん)

・あずにゃんだってホントは泣きたかったはず、だけどこれで卒業してしまう先輩たちの目の前で泣くわけにはいかないと必死に堪えていたんでしょうね。(窓から見える水平線さん)

・そして梓は泣かなかったのも少しビックリ。これはどうだろう、卒業式までは泣かない!とかそんなことなんだろうか、それとも達成感の方が大きいからってことかな。(しろくろの日常さん)

・ただ、ここで梓が泣かなかったのが本当に印象的でした。おそらく一番泣きたいであろう彼女がです。きっと先輩たちに心配をかけたくなかったんだと思います…さらには、あそこで梓を泣かせないことで今まで少しずつ描いてきた彼女の成長(先輩がいなくなることへの覚悟)を
生かすことができたんだと感じました。(隠れオタん家さん)

・むしろ、あそこで梓は泣いちゃいけなかったと思う。だって彼女は、春には一人残って唯たちをこの学校からも、軽音部からも送りださないといけないのだから。
ただ一人残る梓が泣いてしまうと、唯たちはこの先ずっと卒業まで来年春以降の軽音部の心配を続けることになるだろう。一人で送り出さないといけない梓としても、受験を控える大好きな先輩たちを心配させ続けるのは本意ではないと思うから。
廃部寸前だった軽音部をギリギリの人数ながら立て直して、その功労者は最後の学園祭ライヴでこれ以上ない成功を収めてくれたのだから、それを継承する自分が、少なくとも今は泣き虫じゃいけない、って。
確かに三年が引退すると一人っきりになるので、泣いてしまいたいのはあずにゃんの方かもしれない。でも、それは今に始まったことじゃなくて、四月から解っていたこと。ライヴを大成功で締め括れたあの瞬間、あずにゃんはこんな理由で泣くような娘じゃないだろう。
だから、私はあずにゃんが送り出す側として「しっかりあろう!」と想ったのだと感じた。(刹那的虹色世界さん)

刹那的虹色世界さんのこの部分に関する言及は長かったのである程度こちらで端折りました。刹那的虹色世界さんにとっては不本意なところもあるかもしれないので、よければ原文をお読みください。

 さて、いくつか引用してみましたが、少々驚いたのが梓が「こらえている」と捉えた方が多かったこと。というのも、私が観る限りでは梓が特に涙を堪えているように思える描写がなかったからなんですね。なので、堪えていると捉えた方は、いったいどういう部分からそのように感じ取ったのだろうかが気になるところです。

 それで、今回梓が泣かなかったことをどこから解釈するかということですが、もし制作者が梓の言動から何かを感じて欲しいと思ったのならば、それをある程度はっきりとした形でわかりやすく提示するものと思われます。今までも「けいおん」という作品の中でわかりにくく示唆されたものはなかったように思います。その意味から、もし梓のこの行動に「こらえている」という意味を付すならば、もっとわかりやすい形で「こらえている」描写をいれていたのではないかと思い、私自身は「こらえている」というようには見えませんでした(もちろん私の両眼が節穴であるという可能性も否定できませんが)。とすると、20話のこの場面で梓が泣かなかった意味を表す描写が無かった以上、この行動は他の話からの影響を受けていると考えられます。材料探しを他の話に広げていく必要があるでしょう。

 ここで私が思い浮かべるのが、13話の夏祭りの話。前半では度々の夢現の中で変な行動をする先輩を見て、後半では唯に手を引かれながらも逸れるという描写に象徴されつつ、先輩たちがいなくなるという現実を意識させられる回でした。ここで梓が特に意識していることは何かと言いますと、それは、来年は先輩たちがいなくなるのであるという事実なんですね。ぼんやりとそれを意識した事自体夢にしてしまいたいほどに、独りになることに寂寥感を抱えていました。

 本論に戻る前にもう1つ指摘したいのが16話、カムバック私!の回。全体的にもそうなんですが、特に練習したがっているはずなのに澪に向かって「お茶にしましょう」と言ってしまう場面を取り上げます。ここからうかがえるのは、今の梓にとって「けいおん部」の「部活」とはお茶をすることが当然に含まれているものであるということです。本人は否定したがっていましたが、梓にとっても部活の中心が演奏よりもお茶しながらの歓談になっているんですね。

 この2点を踏まえながら改めて本題に戻りますと、この20話で何が終わったかと言いますと、学園祭での演奏なんですね。そしておそらくは高校生として演奏する最後の機会になっていたと思われます。ある意味部活動が終わったとも言えます。一方で、梓が特に意識していたことは、先輩たちがいなくなって独りになることです。今回のことで、先輩たちが即座にいなくなってしまうわけではありません。まだ学校に残り続けます。さらに、今回のことで「部活動が終わった」とも言い切れない部分があります。それは、先程挙げたように部活動に「お茶」があるからです。今回学園祭を終えて先輩たちが全くお茶にこなくなるということが果たしてこの時点で想像出来るでしょうか。このように考えますと、この時点で梓にとって先輩たちとの部活が完全に終了してしまったのだと実感できるほどの事実が無いように思われます。ここに唯達と梓の意識の差が見られるように思います。唯達は最後の学園祭を終えてしまったことで、もはや次がないという現実を強く実感し、その喪失感や寂しさに感情が溢れ出てしまいました。一方で、梓はまだ2年生でありもう学園祭が無いということを唯達と同じようには感じられませんし、梓が同じように感じるとすれば過去の話の中で描写されてきた「先輩たちとの部活が無くなること」「独りになること」であると思われるところ、先程述べたようにそれはまだ唯達のように強く実感できる段階には無いものと考えられます。

 このような点から考えると、梓がこの場面で泣かなかった理由は、梓が唯達と同じほど何かが終わったという実感が無かったからではないかと思われるところです。これは私の出す1つの解釈です。

 もう1つ導きだされる答えとしては、梓には後々泣くべき場面があるのではないかということです。つまり、梓が真に先輩たちとの部活が終わったと感じられる場面ということですね。この時こそ、おそらく梓は泣き出すのではないでしょうか。制作者はそのような場面が後に来ることを意識したために、梓の実感が一段低いこの20話の場面で泣かせることを控えたのではないかと思います。その場面がいつかは言うのも野暮なことでしょう。

と、言うわけで今回も相当長くなってしまいましたが、梓が泣かなかった理由について解釈の過程を提示してみました。本来ならば2話だけでなく1期も含めて梓の言動を吟味すべきところではありますが、残念ながらアニメ考察で食べているわけではない私にそこまでの余裕はなくやや中途半端な解釈になっていることは否めません。しかしながら、私が導きだした解釈についてはともかく、過去の話から解釈の材料を拾うべきという点にはおそらく誤りは無いと思いますので、興味のある方は観返してみてはいかがでしょうか。

 それでは、今回の拙稿はここまでにしたいと思います。お読みいただきありがとうございました。