アニメ「Angel Beats!」を題材にした、二次創作のショートストーリーです。


前編はこちら↓
Angel Beats!二次創作SS 『病室と少女と天使の鼓動』 前編



えー、執筆者のおパゲです。随分時間が空いてしまいました。まるまる1カ月ですか^^

ホントはもっと早く書きあげる予定だったんですが、学業のほうとか、海外旅行とか、いろいろ厄介事があった上に、なんか書きたいこと書いてたらメチャメチャ長くなった!wので、こんだけかかってしまいました。期待されてないだろーとはいえ、これだけ待たせてしまったことをお詫び申し上げまする。

で、内容ですが、前回は「アニメ見てなくても読めるヨ!」みたいなフザけたことを書いてましたが、

スミマセン!思いっきりアニメの重大なネタバレがあります!ww


……それでも良ければ、ぜひご覧になってください。ちなみに、ちっとも面白くないです。前編がなかなかアクセス減らないので、戦々恐々としていますwww




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「病室と少女と天使の鼓動 ~another tale of angel’s heartbeat~」


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 患者 ―― つまり私 ―― が悪魔を見たといって混乱をきたした夜のことは、翌日私の母が病院を訪れるなり、真っ先に伝えられた。むろん看護師は悪魔云々といった話はまるで信じてはいなかったから、その夜のことはちょっとした悪い夢を見たという程度のこととして語られたはずだったのだが、悪魔という単語が口から出た瞬間、母は血の気が失せ、ひどく深刻な事態として受け止めてしまったらしい。大慌てで娘の病室に駆け込もうとする母をなんとか押さえつけて、落ち着かせ、日常の冷静さを取り戻させるために、担当の看護師は15分もの時間を費やす羽目になった。

 それでも母は、まだいくぶん怖れと不安とで表情を強張らせながら、シャツの中にしまいこんでいるペンダントの十字架の部分に握りこぶしを当てて、おずおずと部屋へ入ってきた。

 母は、私の名を呼んだ。いつも通りの快活さを装ってはいたけれど、少し声が震えている。私はあえて返事をせずに、カーテンが大きく開け放たれた窓の外を眺めていた。空はどんよりと厚い雲に覆われていて、いまにも雨が降り出しそうな天気だった。「眠ってるの?」と、母は尋ねた。

「……ねぇお母さん、幸せが、欲しい?」

 私は顔を窓の方へ向けたまま、静かに口を開いた。母は私のすぐ近くに腰を下ろす。

「なぁに、突然?」

「わたしは、欲しいな。昨日ね、お母さんが帰った後にめぐみちゃんが来てくれたんだけど、もうじき卒業式なんだって。それで、春から通う中学の制服を着てきてくれたのよ。とっても可愛かったなぁ。ねぇ、卒業式ってどんなことをするの? 仲のいい友達と一緒に卒業式に出るのって、きっと幸せなことよね?」

「かなで、あなた……」

 顔を母の方へ向けると、母が沈痛な表情で私を見つめている。想定通りの反応だった。私はわざと柔和な微笑みを作って、絶句している母を眺めた。

「ううん、私は別にいいんだよ。そりゃ、卒業式も出たかったし、制服も着てみたかったけど。あ、そういえば修学旅行も行ってないなぁ。行きたかったなぁ、東京。それから――、」

「行ける! 行けるわよ、修学旅行! それに卒業式も、中学校も、全部だいじょうぶだから!」

 話を途中でさえぎって、母が私に抱きついてきた。感極まって、涙まで流しているみたい。でも私は知っている、それが嘘だってことくらい……。

 私は迷惑そうにもぞもぞと体をよじって母の腕を振りほどくと、苦笑した。

「べつに、もういいんだってば。めぐみちゃんや他のみんなと一緒じゃなきゃ、意味ないじゃん」

「あ……、ごめんなさい」母はまた辛そうな顔をして、目に涙を浮かべた。「でもね、あなたはきっと幸せになれる。ならなきゃいけないわ。きっと元気になって、この世で一番幸せな女の子になるのよ、一緒に頑張りましょう!」

「うん、でも、もういいよ、わたし」

「いい、って……?」

「わたしが欲しがるような幸せは、絶対にわたしのモノにはならない。もうずっと前から分かってたんだ。だからもう、いいの。欲しがらないことにするんだ、幸せなんか」

 私は自嘲気味に笑って見せた。ずっと前から考えていたことなのに、いざ口に出して言うと、途端に切なくなって、鼻の奥がつーんとなって、目が潤んでくる。私は涙を必死にこらえた。そんな私を見て、母は見る見るうちに青ざめていく。何かを言いかけた彼女に先んじて、私は言葉をつないだ。

「ねぇ! それより、わたしはお母さんに幸せになって欲しいの。私が病気してからずっと、お母さんは苦労ばかりしてたじゃない? 今のまま張りつめた生活をしていたら、いつか壊れちゃうんじゃないかって、わたし心配してるんだから」

「……何言ってるの。自分の心配だけしてればいいのよ、あなたは」

「そうはいかないよ。だってわたしは本当に、お母さんにはもっと幸せになって欲しいの。わたしなんかに構って、人生を棒に振って欲しくない。わたしは、わたしのために誰かが不幸になっていくのをただ眺めているしかないのが、一番つらいの」

 私はあくまで、本心からそう願っているように語った。いや、言葉の上ではまったくの本心だった。けれどこのとき私はなぜか、これらの言葉が母をひどく傷つけるのを承知で、むしろ進んで母を傷つけようとして、こうした言葉を並べていった。どうしてそんな意地悪をしたくなったのか、自分でもよく分からなかった。ただ私は、自分の保護者であり、自分の生死を握って君臨し続けてきた母親という存在に、反抗したくなったのだった。この効果はてきめんで、母は私の言葉にすっかり面喰らって、一言も口がきけないほどショックを受けているらしかった。それが、快感だった。

「ねぇ、お母さんはもう聞いた? 昨日ね、わたしのところへ悪魔がやって来たのよ。いつの間に忍びこんできたのかは分からないけれど、たぶんわたしが神さまに文句を言っていたのを聞きつけて来たのね。突然ぬいぐるみに話しかけられて、びっくりしたわ!

 それでね、何て言われたと思う? 今思い返すと笑っちゃうんだけどね。ねぇ、悪魔はわたしに、幸せが欲しいか、って聞いたのよ! 可笑しいでしょう? 悪魔っててっきり、人間に悪さをしにやって来るものだとばかり思ってたんだけど、ちょっと違ったみたいね。さっき聖書のお話で悪魔が出てくる場所を探してみたら、悪魔って人間をいじめるんじゃなくて、神さまと人間を取り合うんだって、初めて知ったの。神さまを裏切れば、全世界の王さまにだってなれるんだって! ねぇ、それなら、悪魔がわたしの病気を治して、わたしに幸せをくれたって、おかしくないよね?

 わたしは幸せが欲しい。いまさっき諦めるって言ったけど、欲しいものは欲しい。私の病気が神さまの決めた運命だっていうのなら、わたしは悪魔にお願いしてでも、幸せになりたいの。だって、わたしの病気が治らないことで、わたしだけじゃなくてお母さんまで幸せになれないなんて、神さまは不公平だよ。死んだあとのことなんて知らない、でもいま幸せが手に入らないくらいなら、地獄に落ちたほうがずっとましだわ!」




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「やめて! もうやめて! お願いだから……」

 たまらなくなって、再び母が泣きながら抱きついてきた。今度はその腕をふりほどくことも許さずに強く抱きしめられた。肩を震わせながら言葉にならない嗚咽を漏らす母の姿はひどく弱々しいもので、さすがに私は強い罪悪感を覚えて口を閉ざす。けれど、次に母の口から発せられた言葉が、私を再び悪魔の虜にした。

「あなたが神さまのことを悪く言うたびに、お母さんは胸が締め付けられるの。悪い夢のことなんか忘れて、神さまの言うとおりに正しく生きるのよ。せっかく、手術がうまくいったんだもの、お願いだから、自分の人生を大切にして、ね?」

 私はひどく苛立たしい気分になった。母が、これまでずっと“神さまの言うとおり”に生きようとしてきたことは、私が一番よく分かっていた。そしてそんな献身もむなしく、父とは離婚し、娘は病に冒されて、今は何の希望も無く必死に毎日を送っているというのに、いったい母はどうしてそんな報いを下す神さまのことを信じ続けていられるのだろう? そして、あとほんのわずかしか生命が残されていない私に向かって、どうして“人生を大切に”などと言えるのだろう?
彼女は私を騙そうとしているのだろうか? 私を騙して、心持ち次第ではきっとすぐにでも快復できると信じ込ませて、最期まで無駄なあがきを続けることが、私にとっての幸福は人生だと考えているのだろうか。

―― ふいに、私の心にこれ以上ないくらい邪悪なアイディアがひらめいた。それを言えば、私は私の切り札である秘密の事柄を暴露する代わりに、目の前で泣き腫らしながら私への説得を試みようとしている彼女を、ひどく驚かせ、傷つけることができるだろう。そしてそれは、この上もなく快感だろうと思われた。私はその言葉を、言った。

「ねぇお母さん? 正直に言って。わたしはあと何年、生きられるの?」

「――っ、な、なにを言いだすの……?」

 彼女は見るからに動揺した。その表情の変化からして、私が的外れなことを尋ねているのではないことは、明白だった。

「とぼけないでよ、分かってるんだから。わたしは助からない。わたしが生きていられるのは、あと2、3年? それとも1年くらい? まさか半年もたないなんて、そんなこともあるのかしら」

「かなで! あなたそれ、誰に聞いたの? 先生? 看護婦さん? あぁ、なんてこと!」

「誰でもいいじゃない、そんなの。大事なのは、わたしがしてもらった手術も、入院も、全部無駄だってこと。そこにかかったお金も、時間も、お祈りも、ぜーんぶ。どうせすぐに死んじゃうのなら、いっそ手術なんてしなくても良かったのよ。この心臓だって、もっと別の人に使ってもらった方が、きっと良かったわ」

「そんな! あぁ、お願いだからそんなこと言わないで! お母さんがどんな思いであなたに手術を受けさせたと……」

「そんなこと、わたし頼んでない!」

 この一言が、すべてを決した。私と母の間にはもはや越えられない断絶が生まれてしまった。母はショックのあまりもう何も言うことができず、ただその場に立ち尽くした。私は私で、とうとう母とぶつかってしまったというある種の達成感と、その戦いに勝利を収めた悦楽感と、そして何よりも激しい後悔と自責の念のために、もはや母を直視することもできずに俯き押し黙るしかなかった。私はついぞ知らなかった、愛する人を苦しめることがこんなにも辛く心を締めつけるものだということを。

 私が母にぶつけた諸々の言葉は、すべて私自身がずっと考えてきたことだった。だからそれを口にしている最中は、私は嘘偽りの無い、真実の気持ちを語っているつもりだった。けれどいざ口に出してみると、それらの言葉はなんとも軽々しい響きに聞こえて、たちまち嘘っぽい発言に思えてしまうのが不思議だった。

 ……絶望に打ちひしがれた母は、もう一言も発する気力も失ってしまったかのように、ふらふらと立ちあがって病室を後にした。私は、その背中を見送る勇気すら持てなかった。




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 その日、私はもう何も考える気分になれず、ただ病室から窓の外を眺めて過ごした。定時の診察に来た医師や、時折り様子を見に来てくれる看護師に話しかけられた時だけ、ただ機械的に相槌を打つだけで、それに何を話しかけられてもほとんどうわの空で何も覚えてはいなかった。

 それは、もう日が傾き始めた頃のことだった。病室にはちょうど看護師が来ていて、私の顔色を伺い、二言ほど話しかけてから、カーテンを閉めていたときのこと。私の胸に、ある疑問が唐突に湧き上がってきた。私はほとんど衝動的に、看護師に声をかけた。

「……わたしに心臓を提供してくれた人って、いったいどんな人だったか、教えてくれませんか?」

「えっ?」

 突然話しかけられたことに驚きを示した看護師だったが、すぐに嬉しそうな表情をして、しかし静かに首を横に振って見せた。

「ごめんね、知らないの」

「調べられない?」

 私はしつこくせがんだ。彼女は困ったような顔をして、「お医者さんの先生に、聞いてみようかしらね」と言ってくれた。

「そう! なるべく早くお願いします」

「いったいどうしたの? ずいぶん急なお願いね」

「いえ、べつに……、ただちょっと気になっただけで」

「ふうん、まぁいいけど。でもそのかわり、今朝お母さんとどんなことで喧嘩をしたのか、お姉さんに話してくれるつもりはない? さっきから何度聞いても、まともな返事をくれなかったから心配していたのよ」

「あ、はい……。ごめんなさい」

 私は、母との間にあった言葉のやり取りと、それ以前に私自身がどんなことを思って日々を過ごしていたのかを、たぶんまったくとりとめもなく、思いつくままの順番で話していった。それが臓器提供者のことを教えてもらえる条件だと思ったのだが、どうやら看護師の意図は別のところにあったらしい。姉のようでもあり、母のようでもあるこの看護師に話をすることで、深い悲しみと後悔で張りつめていた私の心は、徐々に解きほぐされていった。話しながら、私はなんども彼女の胸の中で涙を流した。そんなことでは何も解決するはずがないと頭では分かっていても、しかし涙を流すことは確かに今の私には必要なことだった。

「昨日から、これで2度目ね」

 ひと通り泣きやんだあと、彼女は私の頭を撫でながら言った。私は少し恥ずかしくなって、顔を赤らめた。

「恥ずかしがることないじゃない。また泣きたくなったら、私でよければいつでも話を聞いてあげるからね。それと、さっきのこと、先生に言ってくるわね。それじゃ!」

 いかにもさばさばとした性格の彼女は、一方的にそれだけ告げると、活力に満ちた歩調で病室を後にした。私の胸に、ほのかな幸福の余韻を残して――。




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 臓器提供者(ドナー)の話を聞きたいという私の希望は、存外早くに叶えられることになった。同じ日の夜、例の看護師と私の担当医が二人で連れだって、診察の時間でもないのに私のもとを訪れた。看護師の見守る中、医師は優しい口調で慎重に私に語りかけた。

「……かなでちゃん、先生すこし驚かされたよ。まさかお母さんと大げんかしたあげく、あんなことまで言いだすなんてね。いやはや、子どもの洞察力というのは恐るべきものがあるんだね。僕もまだまだ未熟だ」

 あんなこと、と医師が言ったのは、間違いなく、私自身の死期についてのことだった。回復の見込みが無いというのはやはり本当のことだったんだと、私はこのとき初めて、医師の口から直接聞いたことになったのだが、何か感慨が生まれたわけではなかった。

「それでだね、君の心臓をくれた人についてなんだけれど……。本当は、こんな話をするのはいけないことなんだけど、どうやら君にはきちんと話しておいた方が良いことかもしれないと、僕は判断した。だから今回は特別だよ。特別に教えてあげるんだから、どうか真面目に聞いてくれるよね?」

「はい、ぜひ聞かせてください」

 私は即答した。医師はにっこりと微笑んで、それから一瞬、考えを整理するために一呼吸を置いて、ゆっくりと話し始めた。




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「―― きみの心臓はね、もともとはある男性のものだったんだ」

「男の人の……?」

「そう。といっても、まだ若い、君からすればお兄さんのような年齢の子かな。彼はちょっと可哀相な身の上でね。ある事情があってご両親と離れ離れになってしまって、まだ子どものうちから、ずいぶんと難しい環境の中で暮らしていた。彼はそんな自分の人生をとても恨んで、嫌っていた。当然だよね、だって何か悪いことをしたわけでもないのに、なぜか自分だけが、他の友達とくらべて辛く苦しい生活を送らなければならなかったんだから。

 そんな彼にも、愛すべき人があった。唯一の肉親である妹さんを、彼はとても大事にしていたんだ。でも可哀相に、その妹さんは病気を抱えていて、まだ幼いのに病院から一歩も出られなかった。それでも病気を治そうと健気にも必死に努力する妹さんを、彼は毎日のようにお見舞いをして、励ましていたんだ。たぶん彼は、妹さんを自分の手で守り通そうとしたんじゃないかなと、僕は思う。彼はまだ学生なのに、自分で働いてお金を稼いで、生活していたんだよ。きっととても真面目で、頑張り屋さんだったんだろうな。だから、愛する妹のことも、自分で何とかして見せようとしたのかもしれない」

「……」

 私は押し黙っていたが、何か胸騒ぎがし始めた。その男の人と妹の関係って、まるで、母と私自身ではないか……。

「けれど、そんな彼の努力が、裏目に出ることになった」

「裏目に? どういうこと?」

「あるクリスマスのことだ。彼は妹さんを喜ばせようと思って、その日のために一生懸命努力をしていた。妹にプレゼントを買ってやったり、美味しいものを食べさせてあげようとして、いくつも仕事を掛け持ちしてお金をたくさん貯め込んだ。そしてクリスマスの夜、彼は医者から止められていたにも関わらず、妹さんを街に連れ出したんだ。聞くところによると、妹さん自身がそう望んだらしいんだけどね。ともかく、それが決定打となった。賑やかな街のイルミネーションの下で、彼の背中に担がれながら、妹さんは息を引き取ったんだ」

「――っ! そんなことって……」

「まぁ、もともとその妹さんは、もう長くは無かったんだ。彼が連れ出したりしなくても、その日のうちに亡くなっていたかも分からない。だから僕に言わせれば、最期にお兄さんと一緒に楽しい時間を過ごせて、その女の子はとても喜んだと思う。でも、残されたほうはそんな風には思えない。妹を死なせてしまったのは自分のせいだと言って、兄のほうはひどく悲しんだ」

 医師は、いちど言葉をつぐんで、大きく息を吐いた。それからじっと私の方を見て、デリケートな話題に患者が動揺していないか十分に見極めてから、再び口を開いた。

「妹さんは、彼にとって唯一の生きがいだった。妹が頑張って生きようとしていたから、彼も自分の人生を生きていられた。君にも分かるよね? 多くの人は、誰かに依存して生きているものだ。家族や、大切な人がいるから、自分が生きていられる。また逆に自分が生きているから、周りの多くの人が生きる活力を得ているんだ。そうして相互に依存して、相互に責任や迷惑を押しつけ合いながら、お互いに寄りかかり合って生きているんだ。僕は医者としてたくさんの人と接してきたから、それがよく分かるよ。それはでも、決して悪いことじゃない。むしろ、人間同士がお互いに愛し合えるように、神さまが与えてくれた人間の特質だとさえ思うね。といってもこのあたりは、僕より君のお母さんのほうが、詳しいかもしれないね」

 母の名前が飛び出した時、私の顔に不安の色が滲み出た。私はそれを隠したいと思って、続きをせかした。

「それで……妹さんを失くしたその男の人は、それからどうしたんです?」

「うん、どうしたと思う? この世でたったひとつの支えを失って、彼はどんな行動に出たか? 君ならどうするかな」

「わたしは……分かりません」

 正直な答えだった。医師はからからと笑って言った。

「そりゃそうだろう、僕だってどうなってしまうか分からない。生きる気力を失ってしまうかもしれないな。でも、君に心臓をくれたその男の子は、まったく尊敬すべき人物だよ。悲しみに暮れた彼は、きっと自分を強く責め苛(さいな)んだだろうに、しかしそのまま無気力になったり、あるいは自暴自棄になったりすることは無かった。なんと彼は、医者を目指して猛勉強を始めたんだよ。

 医者になるっていうのは、とても簡単なことじゃない。僕が言うと嫌味な自慢に聞こえるかもしれないけれどね。でも、僕だって半端な努力で白衣を着ているわけじゃない。たくさん勉強したし、高い学費を払うのに奨学金だけでは足りなくて、たくさん働いた。同年代の友人たちが遊んでいるのを見ると心底悔しかったものさ。僕よりずっと苦しい生活環境の中で、しかも大きな不幸に見舞われたばかりの彼が、よくそんな努力を続けられたものだと感心してしまうよ。

 彼は満足に青春を送れずに亡くなってしまった妹さんに、少しでも報いたいと思ったのかもしれないし、同じ境遇の子どもたちを一人でも多く救ってあげたいと思ったかもしれない。あるいは、自分では無い誰かのために尽くすというのがどんなに素晴らしい生きがいを与えてくれるかを、彼は気付いたのかもしれないね。

 ともかく、彼は並々ならぬ努力をした。そしていよいよ大学の試験の日がやって来ようという時、―― 彼は、命を落とした」

「え……そんなときに、ですか?」

「うん。君は覚えてるかい? 何年か前に、トンネルの崩落事故で列車が1週間も閉じ込められたことがあったんだけど」

 そういって医師は、その事故の名称を言った。わたしもその事故のことは何となく覚えていた。

「彼は試験会場に向かう途中で、あの事故に巻き込まれてしまったんだ。怪我をしたまま7日間なんとか生き延びて、救助が来る直前までは息があったそうだ。けれど、結局助からなかった……」

「そんな――、じゃあ結局その人は、やりたかったことを何ひとつやり遂げられずに……?」

 正直なところ、私は大きなショックを受けていた。たった一人の病気の肉親を守ろうとして、でも結局守り切れなかった彼の物語を、私は母の姿を重ね合わせて聞いていた。病室に縛られた彼の妹は、そのまま私の姿だった。妹を失っても生きる希望を見失わなかった彼の姿は、とても頼もしく感じられた。

 私が死ねば母はまた自由に生きられる。そんな自分の考えが、肯定されかけたと思った。けれど母と似ているその男性が、自分の人生を生きることを許されなかっただけでなく、他人のために人生を捧げることすら許されなかったのだとしたら、神さまが人間に下される決断はあまりに冷酷すぎる。不幸を定められた人間はどんなにあがいたところで結局不幸にしかならないのか。私自身が不幸の鎖となって母を雁字搦めにしている光景を連想して、私は体の芯から凍りつくようだった。

 ところが次に医師の口から出た言葉は、別の意味で私を驚かせた。

「そう思うかい? でもね、彼は最期の最期まで、やりたかったことをやり遂げようとした、そしてそれは成功したんだよ。まるで奇跡のような男だよ、彼は!」




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「事故は本当に悲惨なものだった。トンネルの前後は完全に塞がれて、携帯電話も通じない。生き残った乗客の多くが怪我をしていて、そしてその中に、多少とも医学の知識を持っていたのはたった一人だけだった。もちろん、医者を目指していた彼のことだ。

 彼はとにかく献身的だった。怪我人にはできる限りの手当てをし、自分も怪我をしているのにそれを隠して、誰よりも懸命に、全員を助けようと努力した。乗客たちは自然と彼をリーダーとして仰ぐようになって、数少ない水と食料を平等に分け合い、お互いに励まし合って生き延びようとした。当初は彼に従わない利己的な人もいて、いちど揉め事になって大切な水をこぼしてしまうことがあったのだけど、彼は悪いことをした人間までもかばって、自分が飲み水を減らしてまで、全員で助かろうと語りかけたそうだ。

 それでも状況が状況だ。怪我のひどかった人は命を落としていくし、一向に助けが来ないから、乗客たちは日を追うごとに希望を失っていった。その中でも彼だけは、自分の体力も顧みず、もう助かる見込みのない人を全力で助けようとしたり、決して諦めないようにと皆に語りかけていた。

 人が生きることを諦めるのは難しいことじゃない。けれど苦しみを受け入れてまで生にしがみつくのは大変なことだよ。進んで誰よりも大きな苦労を引きうけて、誰よりも必死に希望を語り絶望と戦っていた彼は、本当にその場の全員を救いたかったのだろうね。そんな彼の献身に、最初はいがみ合ったり自分だけでも助かりたいと考えていた他の乗客たちは、次第に心を開いて行った。彼の言葉が人々のこころを結びつけたんだ。

 ところが、運命は残酷だ。6日間を過ぎても、一向に助けは来なかった。水も食料も無く、体力もほとんど奪われてしまった中で、もはや希望をつなぐどんな言葉も行動も無意味なものに思えただろう。状況を嘆いたり怒ったりすることも出来ずに、ただ人々の間には絶望と無気力だけが広がっていった。それまでの全ての努力が否定されたような状況下で、いったい彼は何を考えていたのか、僕には想像もつかない。

 7日目のことだ。この日はもう本当に死が目の前に迫って来ていた。そして実際に、彼はここでとうとうその命が尽きてしまうんだ。けれど彼は命を落とす直前、あるひとつの行動に出た。それが、自分の死後、ドナーとして臓器を提供することを、カードに署名することだった……。

 きっと彼は、自分のやってきたことが無駄ではなかったということを証明したかったのかもしれない。全員で助かろうという彼の目標は達成不可能になってしまったとしても、最期まで諦めずに必死に生き抜いたことは、決して無意味なことでは無いのだと訴えたかったのだと思う。そして、死んだあとにまで他者の幸せのために尽くすことが、そんな彼自身の生き様を証明するものなんだと、僕たちに宣言しているんだ。ひょっとしたらそれは、彼の生きる意味を奪おうとした運命に対する、強い反抗の意思かもしれない。

 ともかく乗客たちは、最期まで誰かのために尽くそうとする彼の姿に強い感銘を受けた。そして自分たちも臓器提供の意思を表明することで、最期にもう一度だけ希望の灯をともした。それは、自分の命が助かるかもしれない、という希望では無い。そうではなくて、自分の人生が誰かの役に立つかもしれないという、大きな希望だ。ここにおいて、はじめはバラバラで利己的だった乗客たちの心が、たった一人の献身によって、利他主義のもとに団結したんだよ。これを奇跡と言わずに、何と言うだろう!

 彼は残念ながら亡くなってしまった。乗客の全てを救うことは叶わなかった。けれど、それでも多くの乗客の命を彼は実際に救って見せたのだし、そうして救われた人々は彼の生き様を見て、自分たちの生き方を根底から見直すことになった。この事故にあって彼に救われた人たちはみんな彼に心から感謝を捧げてるし、今度は自分が彼のように、他人のために全身全霊で尽くせる人間になろうと決心している。つまり彼は、人の命を救っただけでなく、人々の生き方を変え、魂そのものを救って見せたんだ!」




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 私は、わなわなと震えていた。医師の話してくれたこの物語は、私の心に深い感銘を与えたのだった。興奮のあまり動悸が抑えられず、私は胸に手を当てて深呼吸をした。私は声を震わせながら、ぽつりとつぶやいた。

「―― 天使さまだわ」

 つぶやいてから、自分が何を言ったのかを把握し、思わず身震いをした。しかし私はもう一度、今度ははっきりと自分の意志で、同じ言葉を語った。

「その人は、天使さまに違いないわ! 神さまが人々の悪い心を正すために、天から使わされた人に違いないわ!」

 私はほとんど叫ぶようにしてそれを言った。看護師は、あまり患者を興奮させすぎないようにとハラハラしながら見守っていたが、医師はにっこりと笑って、そうに違いないと同調してくれた。

「まさに、まさに彼は天使のような人だ。本当の天使だと言われても、否定できないな。僕は乗客の一人に話を聞いたことがあるが、その乗客の口ぶりから、彼が自分では命を落としながらも、どれだけ深く他人の人生を救ってみせたか、それがよく伝わってきた。

 僕たち医師は、怪我や病気を治そうと努力することはできる。けれど忘れないでいて欲しいのはね、結局本当に誰かを救うのは、医学では不可能だということだ。怪我や病気を治療しても、患者が生きようと努力しなければ、治療なんて何の意味もなさない。でも一人の人間に生きる歓びや目的を与えるなんて、僕にはとんでも無く難しいことで、それこそ神さまの取り扱う分野だ。それを成し遂げた彼は、まさに神に使わされた人であったかもしれないと思うよ」

 そう、まったくその通りだと思った。家庭からは見放され、たった一人の愛する妹は病に苦しめられ、その妹さえも失った彼。ようやく自分の生きがいを見つけられたばかりだったのに、今度は生き延びるのも困難な状況に叩き落とされ、しかも自分だけでなく多くの他人の命についての責任も背負いこんで、とうとう自分を助けることができなかった彼。その男性がどうしてそこまで生きることにこだわることが出来たのか、私には理解できなかった。ただひとつ考えられる可能性があるとすれば、彼はその命を犠牲にして人々に希望と奇跡を信じさせるために、重大な使命を帯びてこの世界に使わされた天使である、というものだけだった。そして一見すると空想的で荒唐無稽なその可能性を、私はただ一つの真実として、信じようと思った。

(――わたしの胸には、天使の心臓が埋め込まれている! この鼓動は、天使の鼓動なんだ!)

 その考えが、私を震撼させた。本の中の出来事ではなく、手の届きそうなくらい身近な地域・時代に起きた奇跡。その奇跡の最後の痕跡が自分の体の中に遺されているという自覚が、私に強い宗教的感銘を与えた。私は再び胸に手を当てて、そこに確かに脈打っている心臓の鼓動を、愛おしくもどこか畏れ多いものとして噛みしめていた。

 ……しかし同時に、私はこれによってある重大な問題に直面することになった。以前から、この心臓を自分のものとして受け入れることに私は違和感があった。けれど今日、心臓のもとの持ち主がどのような人物であったかを知って、私はいよいよこの心臓が、否、私の生命そのものがまるで自分のものではないという、恐怖にも似た感覚に陥った。そうだ、私はこの心臓に値しない。本物の天使か、そうでなくとも世界で最も美しい心を持った青年の、最期に遺された希望のメッセージ、それがこの心臓だった。だからこの心臓で救われるべきは、強い精神と、生きる希望と、美しい心を持った人でなければならなかった。生きがいがあるわけでもなく、そもそもわずかしか寿命が残されていない、生きることに絶望した私のような人間は、こんな心臓を受け取ってはならなかったのだ。その上私は、神を呪い、悪魔を受け入れて、さらには私がただひとり心から愛する母を、深く深く傷つけてしまったのだ!

 私は、ふいに自分を襲った強烈な罪悪感の前に打ちひしがれたが、それを顔に出さないように努めた。心の中で何かが私にそうさせたように感じた。目の前に座っていた医師や私たちを見守っていた看護師は、はじめ私が医師の話す物語に感動していたのをみて、ひとまず安堵していたものらしかった。彼らは私を元気づけるためにもう二言三言投げかけてから、おやすみを言って病室を出て行った。




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 同じ晩のこと、私はとっくに消灯時間を過ぎた後も眠れず、悶々と考えを巡らせていた。

(この命は、わたしなんかに与えられるべきものじゃ、無い。何かの手違いだったんだ。だから、わたしは命をあるべきところに返さなきゃいけない……)

 さきほどから何度も同じ言葉が頭の中を駆け巡っていた。もはやその考えは、覆しようの無い真理として、私の眼前に立ちはだかっていた。私は怖れおののいた。だが、恐怖を突き付けられていればこそ、その命令には従わなければならなかった。私にそれを拒否する勇気は無かった。

(命を、心臓を、天使に返しにいかなくちゃ……。でもどうやって?)

 それが重大な問題だった。ドナーの肉体は、いまはどこかの墓地に眠っているのだろうが、そこがどこかは知らなかったし、教えてもらえそうにもなかった。それに天使ともあろう存在が、いつまでも肉体に縛られているとは思えない。ではどこにいるのか? 呼べば来てくれるだろうか? ……ついさきほどまで神を呪っていた不信心者の呼びかけなど、到底応えてはくれないだろう。

 ここで私は、神でも天使でもない、もうひとつの異界の存在を思い出した。つい昨晩、私のところに来てくれたモノがあったではないか! 悪魔が神や天使と対立しているとしたって、私たち人間よりは、ずっと神や天使と近しい存在であるのは間違いない。もし私が魂を捧げると約束すれば、いまこの胸の中にある心臓を、私などよりずっと生きる価値のある人間の胸に移し替えることくらい、悪魔にとっては容易いことなのではないか?

(あのぬいぐるみ、どこへ捨てられたかな……?)

 私は昨晩のことを必死で思い返した。看護師が、ぬいぐるみを捨てたと言っていたのは覚えていた。たしかその前に私は、あのぬいぐるみを燃やして欲しいと、頼まなかったか。もしその願いが聞き入れられているとすれば、捨てられた場所は……、

(焼却炉だわ! きっとそうに決まってる! 今日は焼却炉では何も燃やされていなかった。あそこに行けば、きっとまだぬいぐるみがある!)

 ひとつの解答に辿りつけたと思って、私は喜んだ。自分のひらめきには大きな自信があった。というのも、私の病室の窓からは、病院に備え付けられている焼却炉の煙突がよく見えたからだ。特別な処置の必要ない可燃ごみについてはその焼却炉で処理されていることを、私は知っていた。

 もっともこの時の私には知り得ないことだったが、件のぬいぐるみはまだ捨てられてはおらず、看護師が人目のつかない場所に保管していたから、焼却炉に行ったところで私は目的を果たすことができなかったはずだった。けれど私は自分の考えに固執するあまり、焼却炉に辿り着きさえすれば全てが解決されるのだと信じて疑わなかった。まるでこの時すでに、私は悪魔の支配下におかれていたかのようだった。

 居ても立っても居られなくなった私は、後先を考える余裕も無しに、すぐに計画の実行に移った。すぐに見つかるなどとは考えもせずに、私は病室を抜け出したのだ。




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 ベッドから降りて長い時間歩きまわるなど、もう何年も経験していなかった。人目を忍んでの脱出行だったので部屋の明かりは灯さずにいたから、手探りのなか靴さえ身につけるのも忘れて、はだしのまま廊下に這い出した。

 広く長い廊下には手すりがついていたから、それに掴まって立ちあがろうと試みたが、立ったところで歩きだす体力などなかったから、数歩進んだところですぐに私は膝立ちになり、四つ足で移動し始めた。しかしそれさえすぐに力尽きて冷たい廊下にぐったりと倒れ伏し、それでも気力を振り絞りながら、休み休み廊下を這っていく。芋虫にでもなったような気分で、自分の情けない姿を想像して恥ずかしくなった。だがそれよりも、なんとかして屋外の焼却炉まで辿りつくのが最優先の目的だった。

 健康な人間なら30秒とかからないであろう距離にあるエレベーターに辿りつくまでに、私は多大な時間と体力を浪費した。それでもなんとかエレベーターの前までやってきて、渾身の力を込めて立ちあがり、ボタンを押して、再び倒れ込んだ。しかしそこからさらなる困難が待ち構えており、私はエレベーターのドアになんども体を挟みこまれながら、文字通り必死になって狭い箱の中に転がり込み、1階へのボタンを押す前にそのまま何分間も動けなくなってしまった。

 エレベーターが1階に到着してからも、同じような苦労の末に廊下に這い出し、長い時間をかけて玄関まで進んで行った。自分の病室を出てからここまで、いったいどれだけの時間が経過したものか、もうすっかり分からなかった。

 この日のことを後から思い返すたびに、私も、あるいは病院関係者たちも、一様に首をかしげることになる。まさか私が病室を抜け出すとは医師も看護師も想像すらしなかったとは言え、病人が玄関へ辿りつくまでに、当直の職員がとっくに発見していなければならないはずだった。だがこの日に限っては、よく練られていたはずの病院の管理体制がなぜかまったく機能しなかった。まるで奇跡的な確率の偶然が重なりあって、私の無謀な脱走を援けているかのようだった。母などはこの夜の出来ごとを後から聞いて、悪魔が私のことをさらおうとしていたのだ、などと信じている。ともかく、私は玄関までやってきた。私が自動ドアを抜けて屋外に出る頃には当然、寝ずの番をしていた宿直の看護師に、私の姿が見えていたはずだ。しかし看護師は目を離していたのか、私はついぞ一度も呼び止められることなく、玄関の外に出た。

 この夜は、雨が降っていた。さきほど降り出したものらしかった。立ちあがることの出来ない私は、地面が濡れているのを見て一瞬躊躇したが、何かに操られ引き寄せられるように雨の中へ進み出て行った。




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 3月の雨は、冷たかった。雪になっていないのが不思議なほど、風も雨も凍てつくようだった。無数に降り注ぐ水滴のひとつひとつが、私から体温をむしり取っていく。アスファルトの地面はその氷のような冷たさのためにいっそう強く私を苦しめた。

 もはや、焼却炉へ辿りつくどころではなくなった。私は進むことも戻ることもできずに、死に至る雨を全身で浴びながらその場に倒れ伏した。どうしてこんなことになってしまったのか、わずかな口惜しさだけを覚えつつ、私の意識は遠のいていった。

(これで、私の人生はおしまい……? ああ、やっと解放されるのかな……。ねぇ、お母……さん……。ごめ……なさい………………)

 遠くで私の名を呼ぶ声が聞こえたが、私はそれに答えることはできなかった。




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続く……。