昨日、借りぐらしのアリエッティを見てきました。

映画館の入り状況ですが、客は120人収容ぐらいの会場に半分ぐらい埋まった感じでした。男女比の割合は女性6、男性4の割合でしょうか。若い方が多かったです。中高大学生が多かったような。土曜日だったので混んでいると思ったら、予想以上に空いていてちょっと拍子抜け。映画館は満員のお客さんの中で見るのが一番興奮できるので、もっと入ってほしかった。

でも映画館は良い所です。まず音響が良い。大画面。本当に映画館は臨場感と神秘性を味わえる神聖な映像空間です。お金と時間があれば、毎日行きたいぐらいです。

さて借りぐらしのアリエッティ。アニプレッションではサイとさんが批評を書かれていますが、私は本作が「宮崎駿脚本」という点に注目し、彼の心の中には人間に対する絶望があるのではという視点から感想を書いていきます。
-はじめにー

借りぐらしのアリエッティで描かれるのは絶望だと思います。絶望というのは、救いの無い話という言い方もできます。つまりアリエッティには救いが無い(少ない)のです。

この物語は慎ましやかに暮していた小人のアリエッティが触れてはいけない人間の少年、翔と出会ってしまう。アリエッティも翔もお互いに興味を持ってしまう事から、他の人間(ハル)にも見つかる。そこから事件は起こり、事件は解決するのですが、結局はアリエッティが暮らしていた場所を離れていくというのが大まかなあらすじでしょうか。


-アリエッティがなぜ絶望的にみえるか、二つの理由-

ではこの話はなぜ、僕にとっては絶望に見えてしまうのでしょうか。それは2つの理由があります。

一つめの理由はは小人達の存在です。どうやら彼らは数が少ないのではという事が本編で何度も匂わされます。後述する人間の翔には「滅びゆく種族」とまで断定されます。しかもアリエッティ達は住む場所を失ってしまった。ラストを見る限り、新しい住みかはあるのでしょうが、積極的な意志で家を離れたわけでもないので、私から見えたのは小人達という種族の衰勢がひしひしと伝わってきました。しかし同時に重要なのはアリエッティ含め、小人族が生きる事に全力な姿勢な描写はずっと描かれ続ける事です。

二つめの理由は翔という少年の存在です。彼は心臓が悪く余命幾許らしいです。さらに手術しても助からないと自ら言い放つなど、相当なペシニズムに陥り絶望している。そんな彼がアリエッティに関心を持ったのは、恐らく純粋な好奇心なのでしょう。しかも彼がきちんとアリエッティに始めて顔を合わせて言った言葉は「人間は67億いる。小人族は滅びゆく種族」と言うのです。こんなひどい事を言う翔は、この時点では自分が置かれた状況に絶望しています。私には翔がすごく投げやりに見えました。

またこの言葉で見えてくるのは、小人という滅びゆくといわれる絶望下にありながら逞しく全力で生きるアリエッティ達。そして67億もいると人間は繁栄を遂げていると言いながら、その人間の世界でただ一人絶望している翔。この対象的な存在が浮き彫りにされます。

つまり借りぐらしのアリエッティは、質は違えども絶望を抱えた者同士が出会うという話なのです。そして何より絶望の問題は、小人側は解決されずに、翔の側も生きる勇気が沸いてきた事で救いを見せていますが、翔とアリエッテlは離れて暮らさなくてはいけないのです。絶望的な問題は殆ど解決されないのです。


-翔以外の人間の描写に見る絶望性-

また絶望を違う側面で強調されるのが翔以外の人間達の存在です。翔のお母さんは離婚して、重病の息子を叔母の元へ預けるなど、彼の家庭は崩壊しています。また翔を預かった叔母も基本的には良い人間のように描いていますが、翔の力には全くなれませんし、後述するハルの悪事にも気づきません。最後に叔母さんの仕えているハルというおばちゃん。ハルは小人の存在を嗅ぎつけ、小人を攫おうと画策します。ハルは翔の部屋に鍵を掛け、アリエッティの母を拉致し、最後はねずみ駆除に頼んでアリエッティの住みかを暴こうとします。しかし、翔とアリエッティのコンビによってその目論見は崩れます。

重要なのはこのハルの行った本作では悪と見られる行為は誰も注意しないのです。彼女の悪事を翔君は弾劾しません。またハルも悪事に対して戒心する事もありませんでした。つまりハルの悪事・身勝手さはそのまま放置され物語は終息します。こう考えると、人間側でポジティブに描かれたのは、翔が小人を助けようとした所だけなのです。

ハルの悪事をそのまま放置したのは、本作の脚本を書いた宮崎駿らしいと思いました。放置のままにさせたのは、人間ってそういう生き物だからという絶望的なメッセージと、注意する事で得られる安易なカタルシスを与えないようにしようとしたからではないでしょうか。


-宮崎駿のメッセージ-

本作を普通に読み説けば、アリエッティと翔の出会いが素晴らしいものであり、アリエッティと翔のそれぞれの未来へ希望を抱かせるような感じにみえるかもしれません。しかし私は本作に散見される上記のような人間に対する諦めみたいな描写が多かった為に、本当は絶望的な話なのではと思っています。

本作の脚本を担当したのは宮崎駿です。企画も担当しているので、本作のシナリオは大きく彼の威光が強いでしょうし、その為彼の思考が十分に反映されているシナリオだと感じました。宮崎駿は一見明るい希望的な作風や側面もお持ちの方ですが、天空の城ラピュタの悪役ムスカが「見ろ、人がゴミのようだ」というような台詞を発するように、または「人間という種族は滅んでも良いんだ」という発言があるぐらい、人間に対して冷淡な一面も持っています。

アリエッティで描写される人間に対する絶望感は、宮崎駿の人間観が垣間見えました。特に「人間は67億」と翔に言わせた本作。この言葉を読み取ると、繁栄している人間達もそのうち、小人達の同じように衰退する運命になるだろう、といるように聞こえます。

アリエッティ達は人間の道具や食料を「借り」て暮らしています。我々人間も自然の資源を「借り」てずっと生き続けています。しかし現状、本当に「借り」ているのでしょうか。今の日本は、製品(商品)を大量に生産し消費し廃棄する市場経済全盛の経済システムで成り立っています。この経済システムでは自然から「強奪」している状況なのです。

宮崎駿はそうした自然から「強奪」している人間達は小人のように慎ましやかにそして一生懸命生きる事を訴えたいのではないでしょうか。しかし慎ましく生きる事、それが容易に出来ない事も明白であり、この事に対する絶望感も同時に感じているのだと思います。また映画というのは産業であり、自然からの「強奪」に一役買っているモノでもあります。本作はこうした人間への希望と絶望、そして自然の大切さを自然を壊す事に加担している映画で訴えるという矛盾、これらが入り混じった作品であると感じました。