どうもこんにちは、「妄想詩人の手記」のおパゲーヌスです。


前回から少し間が空いてしまいましたね。怒涛のような投稿をしていくには今少し、時間と体力が不足しているようです。ご理解いただければ幸いですw


さて今までは、アニメをどうやって見て行くか、という観点から、私なりの考えを披露させて頂きました。これについてはまだまだ語りたいこと、考えたいことがたくさんあるので、折を見て書いていければと思っています。

しかし今回は少し視点を変えて、ブログを持つということ、文章を書いて発信していくことについて、考えて行きたいと思います。もちろんブロガー向けというだけでなく、ブログを持っていない読者の方々にも発信する内容となっております。また長くて堅い文章になってしまうかと思いますが、よろしくお付き合いください。


-----------------------
・文章は書き手の魂を映しだす鏡

感想文であると創作であるとに関わらず、またそれを他者に披露するか否かは関係なく、人が文章を書くのには必ず目的がある。自発的に文章を書きたいと思ったことのある人は、多かれ少なかれ自覚していることではないだろうか。

その目的とは何か。大きく分けてそれは二つあって、ひとつは自分自身の考えを整理して分かりやすくまとめたいという理由。自分の頭の中だけでは理解しきれない難問を抱え込んだ時に、人はそれを文章に起こすことで、理解の一助とする。あたかも難しい方程式をノートの上で展開し解きほぐしていくように、私たちは感想文を書いたり、詩を作ったり、論考を行ったりする。そうやって人は、自分自身の中に湧き起こった感情や思索を咀嚼して、自分自身の栄養として取り込んでいくのだ。

もうひとつの理由はもちろん、自分の意見を他者に伝えたいというもの。自分が感じ考えて溜めこんで行った意見を、様々なカタチで人は表現しようとする。文章を書くというのは比較的誰にでも簡単に手が付けられる表現法であるし、かつ最もダイレクトに他者へ意見を伝える方法でもある。文章を書くという行為は、自分の存在を世に問いかけるもっとも身近なツールだ。


ところで、この二つの目的から導き出されるある結論を、あまり自覚せずに文章を書いている人は意外と多い印象を受ける。その結論とは、文章は、書き手の人間性、人生観、魂を映しだす鏡であるというものだ。

文章を書くにあたって、自分をより深く理解することと、自分を表現することを同時に行うわけであるから、当然、文章にその人自身が強く反映されるのは自明のことだ。

むろん、技巧的な問題はまた別であるし、その人がどのような文章と触れ合ってきたかによって書き方は変化する。しかし何かを書く以上は、書き手は自分自身の内面と対峙せざるを得ないし、自分自身の内側から文章をひねり出さなければならない。真面目に文章を書く以上はどうしたって、その人自身の内奥が文章には表れるのである。

(逆に言えばどう逆立ちをしてみたところで、文章には書き手が体内に溜めこんでいる以上のことを表現することはできない。無い袖は振れないのだ。)




・何を表現しているのか

アニメを見てその感想をブログに書くと言う行為も、これと何も変わらない。アニメ作品という「とっかかり」を得て書くことになるという点が加わるだけで、基本的には、その文章には書き手の内面が表現される。その度合いは記事によってまちまちだけれども、我々ブロガーは、アニメというフィルターを通しながら、文章の上に自分自身を描き出そうとしているのだ。

このことを自覚すると、ブログの書き手にとてはもちろん、読者にとっても、文章の持つ意味と意義がぐっと大きく感じられると思う。ブロガーは、アニメによって揺り動かされた自分の心と向き合い、また自身の人生上の様々な出会いや経験・知識と連動させながら、文章の中に自分自身を、その縮図を表現しようとしている。それを意識したとき、ネットの向こう側にいて見えないはずの人間が、文章を通してはっきりと浮かび上がってくるのである。


もちろん、書き手の表現しようとしていることは様々である。とくにアニメブログの場合、視聴時にひらめいたツッコミを並べたり、作品のあらすじをまとめたりする者もあれば、作品を客観的に考察してみたり、アニメと全然関係ないことを語り出す場合もある。そうした表層的な「やりたかったこと」を読者はきちんと読みとるべきだろうし、書き手はそれが伝わりやすいように書く努力をするべきだろう。

しかしそうした表層的な表現の向こう側に、確かに書き手という「人間」が表現されているはずだ。文章そのものに込められているその人間と出会うことが、ブログを書いたり読んだりする上での、一番の醍醐味であり、本質だと私は思う。


自分でブログを運営している者も、あるいはブログを見て回る読者も、ブログは人と人との出会いと交流の場だということをぜひ自覚してみて欲しい。きっとそこには、ネットワークを通じて見える無数の人間との触れ合いの広がりが、見えてくるはずである。




・アニメ作品もまた同じ

文章には書き手の人間性や魂が表現されていると書いたが、それはアニメや、あるいは他のあらゆる創作物についても、まったく同じことが言えると思う。

もちろん、一人の人が作り上げるブログの文章と異なり、アニメには無数の人間が作り手側として参加し、様々な事情や思惑に左右される作品だ。また我々ブロガーのような趣味ではなく、プロとして、仕事としてアニメを”生産”している点も、大きく異なる。

けれどそこにはやはり、生身の人間の魂が刻み込まれている。絵にしろ脚本にしろ音楽や声にしろ、それはたしかに人間の手によって作り上げられたものであり、作り手自身の内面が少なからず表現されているはずだ。そしてそうした一人ひとりの表現の集成として、すなわち制作者集団全体の情熱と葛藤の総力として、アニメという作品は我々の前に立ち現われてくる。

アニメ作品を製品としてどう評価するかという意識も良いのだが、作品の向こう側に見え隠れしている人間の(人間たちの)姿を想像して向き合って見ると、アニメはまったく違った側面を、私たちにに見せてくれるかもしれない。




----

それでは、今回は以上です。