どうもこんにちは、「妄想詩人の手記」のおパゲーヌスです。

前回の記事では、なんだか長い長い文章でよく分からない内容の記事をつらつらと書いたわけですが、もうご覧いただけたでしょうか。

・・・え、読んでない?  なに心配には及びません。前回の記事の意図は、「せっかくアニメを観るんだから、そこから何かを掴み取ってみようじゃないか」 ― はいこれだけです。これでもうあの厄介な長文を読む必要はなくなりますので、あんなものは打ち捨てて、空いた時間と体力をさっそくこれから読む記事のほうに回しましょうね。


今回私が執筆するのは、「理解することと考えること、評価することと掴み取ること」。アニメを観る上で、理解する=評価する、という姿勢と、考える=掴み取る、という姿勢のふたつを対比させて、ただ面白がるだけではないアニメの楽しみ方を、提案させていただこうと思います。

ま、基本的な主張は前回の私の記事と同じなんですけどね。この一連のエントリーは、いわば私(わたくし)おパゲーヌスによる「感想ブログ立宗宣言」シリーズとして続けて行く所存であります。別名「おパゲ学派設立計画」とも言うwww


これだけ分かりづらいことを書いておいてなにが学派だ、お前一人でやっとれ、なぁんて言われるかも分かりません。でもせっかくこういう場ですので、私なりのアニメの見方、ブログのあり方を模索してゆく場にしたいと考えております。拙い文章ではありますが、なにとぞお付き合い頂ければ幸いです。


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・はじめに

我々アニメファンは、いったい何を求めてアニメ作品を観るのだろう? 

もちろん、答えは単純明快だ。個人によって微妙なニュアンスの違いはあろうけれど、まず間違いなく我々は、面白いからアニメを観るのだろう。

作品によって面白いかどうかは差があるが、アニメ一般として考えたときに、面白くもないのにアニメを観ようとする人は稀だと思う。アニメはどこまでいっても娯楽であり快楽を与えてくれるもので、それを期待するからこそ、我々は時間を割いて日々アニメに向き合っている。


しかし、しばしばアニメというやつは、そんな我々の想定を大きく逸脱した価値を提供してくれることがある。今回はそんな作品の見方についての話をしたい。
なので今回は、単なる娯楽作品ではなく、人によって解釈が分かれるような小難しい作品に話を絞って、考えていきたいと思う。


・アニメは理解するもの?

一度観ただけでは理解に苦しむ場合や、理解したと思っていた自分の解釈が他人と食い違っている場合というのは、意外に多くの作品で経験することだ。今のアニメは子どもよりも、ある程度年齢を重ねた視聴者を想定している場合が多いので、ドラマに深みを持たせる工夫は常に行われているし、視聴者もそれを求めている側面があろう。今期で言えば「Angel Beats!」や「四畳半神話大系」がまさに、解釈の相違をあえて生じさせることで視聴者を混乱させ、しかしそれを作品の大きな魅力にしてしまっている。しかしそれ以外の作品においても、そこでドラマが描かれる限り、多かれ少なかれ謎解きの面白さは作品の魅力に直結する部分である。

さてこうした作品の場合、当然のことながら視聴者の間でしきりに問題にされるのが、「そこで何が描かれているか」、すなわち作品理解についての論議である。この伏線はどういう意味なのか? このキャラの言動はどういうことなのか? この世界の設定はいったいどうなっているのか?等々。そして、それぞれの意見が正解であるか否かが、皆の興味の中心となる。

もちろんそれは作り手の意図する反応であろうから、作品解釈の正解を探して盛り上がるのは、とても良いことだと思う。

しかし、そうやって視聴者が作品を理解しようという流れのなかでいつも私が思うのは、理解度の深さや解釈の正解不正解ばかりが問題になって、作品の持っている本当の価値が見向きもされなくなるのではないか、という怖さである。


・理解と評価について

作品を理解するということは、むろん出来ないよりは、出来た方がよい。作品を正しく理解すれば、それがそのまま、作品の価値や魅力の理解に繋がるからだ。ちんぷんかんぷんなのに何となく楽しいと感じるよりも、きちんと劇中の出来ごとを理解した上で楽しんでいたほうが、ずっと有意義なのは言うまでもない。

しかしここで問題にしたいのは、理解したその先に何を見出すか、という点である。仮に作品を通して作り手のやっていることを正しく理解したとしよう。さてそのとき視聴者はどう考えるであろうか。

―「私はこの作品を理解した。この作品はかくかくしかじかのものであった。ここが良くて、ここが悪かった、云々」

恐らくこのようなことを考えるのではないか。そして、このようにして作品を”評価”した時点で、その思考を止めてしまいはしないだろうか。


作品を理解することは、作品を評価することに通じている。とくに我々ブロガーは、各々の理解度に従って感想や考察を書いているわけだが、最終的にその目的が、自身の評価を記事にまとめる地点に落ち着くことが当然多くなる。だがこれはブロガーだけでなく多くの視聴者に共通の傾向性ではないだろうか。


・やりたかったことの向こうに、伝えたかったことがある

作品が、そのストーリー構成の妙や設定の複雑さを売りにしている場合、作り手が提示してきた謎をなんとか解き明かして見せようとするのは、視聴者の義務であると言っていい。だから、作品を理解しようとすることには大きな意味がある。

しかし大抵の場合、それは表層的な意味でしかないのだと、私は訴えたい。

作品には表層的な視点での”やりたかったこと”がある。それは例えば巨大ロボットを動かして見せたいとか、特殊な世界観を構築してみたいだとか、あるいは推理の醍醐味をドラマで表現したいだとか、そういった要素だ。視聴者が作品を理解しようとする場合、ほとんどがそうした表層的な視点を問題にしている。そしてその表層的な視点における作り手の意図は、視聴者を楽しませたいというその一点でしかない。


しかし往々にして作品は、表層的な面白さを追求するのと同時に、視聴者に対する思想的メッセージを内包している場合がある。そして我々は、作品の表層を理解しようと四苦八苦する一方で、その裏に潜んでいる重要なテーマを見落としてしまいかねない。

作品を理解し評価しようとする場合には、その危険性をよくよく認識しておくべきだと私は思う。作り手が作品を提示してきたとき、表層的な”やりたかったこと”の向こう側に、その作品を通じて我々に”伝えたかったこと”が存在していると、知るべきである。


・作品を考えるということ

このことを私は文学を通して学んだ。文学は面白い。かつて他に娯楽の少なかった時代、文学は青年たちにとって何よりの娯楽であった。そうした中から、現在「古典」として(しばしば小難しく高尚で近寄りがたいものとして)扱われている作品群が登場した。だが文学に触れ合ったときに、たとえばその物語の面白さや文体の美しさを褒めるだけでは、文学の価値を正しく語ったことにはならない。多くの文学作品が扱っているのは人間の心の問題であり、魂のあり方についての問題であって、そこをどれだけ深く思索するか(※正解を見つける必要は無い!)というのが、文学とより有意義に付き合う方途である。

アニメについても同じで、むろんアニメを文学のように難しくありがたがる必要はまったくないが、しかしそこで繰り広げられているドラマの面白さや理解度だけではなく、作品が何を伝えようとしているか、それを考えるところまで踏み込むことができれば、アニメはさらに豊かな価値を我々に与えてくれるだろう。


むろんこの作業を、視聴者が自然と行うように仕向ける作品が確かにある。そうした作品は視聴者に大きな感銘を与え得る、優れて価値の高い作品であると言える。我々視聴者はこれを高く評価すべきであるし、大きな熱意と創意工夫のもとに作品を生み出した人々のことを称賛すべきであろう。

しかしでは、そこまでの感銘を与える力を持たない作品については、表層的な魅力だけを楽しめば良いのであろうか? むろんそれは否であって、やり方が上手いかどうか、あるいは趣向の問題といったことも確かにあるだろうが、しかし作り手が表層的な魅力以上のものを作品に込めようとしている以上、それを汲み取る努力を視聴者はするべきであると思う。またもし作り手が意図しないことであっても、視聴者の姿勢によっては思いもよらない価値を掴み取ることも可能なのだ。

芸術とは、作り手と受け手の相互の切磋琢磨によって発展するものだ。だからこそ我々は、作り手が発信したものをただ理解し受け入れるだけではなく、その中から自分自身の努力によって価値を見つけ出すことが大切であると、私は訴えたい。




作品を理解し評価することは、それはそれで大いに行うべきだ。しかし同時に、作品を考え、その中から自分で価値を見出し、掴み取ること。それができて初めて、その作品は自分だけのやり方で経験されることになるのだと思う。


・・・視聴者は、受け取ることに安寧としていてはもったいないと思う。が、これはまた、別の機会に書くことにしたい。


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それでは、今回は以上です。