どうも、こちらでは初めまして。「妄想詩人の手記」管理人のおパゲーヌスと申します。いつもダラダラと意味の分からない長文記事を発信しておる者です、どうぞよろしくお願いします。


さて早速ですが、自己紹介も兼ねて、普段自分がどんな想いや期待を込めてアニメを見ているか、ちょっと語ってみたいと思います。普段記事を書く上での大前提となるアニメ観といいますか。おパゲーヌスというブロガーがアニメからどんな価値を掬い上げようとして文章を書いているか、言わば感想ブロガーとしての信仰告白といったものを、アニプレッション!!への私の第一弾投稿と、させていただこうと思います。


また小難しい話から入りやがって、と思ったソコのあなた。無理して読まなくても良いですので、代わりに何かネタをくださいw 良識と能力の範囲内で検討させていただきますので。高尚な話題からエロトークまで、幅広い記事ネタを絶賛大募集中です☆ それでは、しばしの間お付き合いください。↓


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風景は、人が見れば見るほど摩耗する。
宮崎駿「空のいけにえ」(サン=テグジュペリ『人間の土地』解説)より

メディアに晒される者はみな「消費の対象」となる運命にある。ときにアイドルがキラキラ輝いて見えるのは その「運命」と戦っているように見えるからかもしれない。でも「消費の対象」はアイドルだけの話じゃない。
幾原邦彦 ツイッター上での発言(2010/5/12)


・アニメに宿命づけられた”消費”の力学



創作物というものは、基本的には、いちど完成されてしまったらもう二度と、その姿を変えることは無い。とくに現代、紙や各種メディアやデータとして世に送り出された無数の創作物は、何か意図的な改変が加えられない限り、送り出されたままの姿を保ち続けることが求められる。そしていかに姿を変えないで発信できるかというのが、科学技術の発展のひとつの指標とされるようになってから、もう何十年も経った。


作り手がそうして発信した創作物を我々が受け取った時に、それはあまり「消費」という言葉では表現されない。消費とは、使えば無くなってしまうものに用いる言葉だ。食べ物は、日々我々に消費されている。エネルギーや資源や服飾品や文房具は、消費され次々と消滅あるいは打ち捨てられながら、また次々と新たなモノが生産されていく。分量に限りがあるものを、その分量を減らすことで活用すること、それが”消費”という言葉の意味だ。


 だから、当分の間は不変の姿を保つことが容易に想定される、風景とか芸術作品などは、消費とは言わない。素晴らしい風景を見ても、その見るという行為そのものが風景をすり減らすハズがないし、アニメを何度見たところで、メディアを消費することはあっても作品そのものは、消費されたとは言えないハズだ。


ところが、冒頭に引用した二人のアニメ監督の発言は、これは一体どういうことだろうか? 人間の活動がある風景を破壊するとか、そんな意味ではない。人に見られただけで、風景や画面の中のアイドルは、摩耗し消費されるというのだ。




以前、たしか「ウテナ」の古いほうのDVDだったと思うのだが、そのブックレットに「現在はたくさんの量産型美少女が消費され、使い捨てられている」というようなことが、書いてあったと記憶している。現在そのディスクは布教のために友人の手許にあって確認できないのであるが、しかしその解説文を読んだ時に、一見我々受け手の活動によっては変化しようがないハズの創作上のキャラクターや世界観が”使い古される”という現象があることを、自覚した。紹介した宮崎駿の引用文を目にしたのはその後であったし、幾原監督をツイッター上でフォローしたのはもっと後だったが、しかし同じアニメ制作の現場に携わっている複数の人物から僅かに垣間見れた”消費の宿命”の自覚に、私は深い感銘を受けた。


恐らくこの問題は、アニメだけではなく、世に創作物を発信している全ての作り手に共通の自覚だと思う。芸術とエンターテイメントとを問わず、またアニメだろうと漫画だろうと小説や音楽だろうと、あらゆる創作物は、消費されることから逃れ得ない。そして作り手はきっと常に、この宿命と戦い続けている。




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 ・宿命との対決


では作品が消費されるという現象は、具体的にはどういうことだろう?


私が思うに、これはひとつには「ファーストインプレッション」との戦いなのだと思う。 アニメ(あるいは他の創作物)を視聴した際に、受け手がまず感じた感想。我々視聴者は作品と向き合った瞬間から、アニメを理解し、楽しみ、あるいは評価しようとする。そうして見終わった後に「これはこういう作品であった」と断定するわけである。それは作品によって異なる時間・異なるやり方で、受け手の体内に取り込まれ、消化される。


「ファーストインプレッション」は、その本質は不変であると思われている作品において、ほとんど唯一、分量が限られている要素であろう。1度見た作品を人はなにかしら記憶にとどめておくのだから、初めて見た時の感動・感覚は、もう2度と味わうことが出来ない。つまり「ファーストインプレッション」はまさしく、”消費”の対象なのだ。




また宮崎駿が風景について語ったのは、この文章が20世紀初頭の危険な郵便飛行機乗りを題材にした小説の、あとがきだからであろう。だがそこで語られていることは、そのままアニメーションにも当てはまると思う。宮崎は記す。


パイロットは全神経を集めて、風景のわずかな兆しの中に天候の変化を読みとろうとした。白い雲も強固な岩山に等しい危険な罠。空が気紛れなひと吹きで郵便機を破壊してしまうのを彼等はよく知っていた。充満する危険の中で、張りつめ覚醒した彼等の見た世界はどんな眺めだったのだろう。  
風景は、人が見れば見るほど摩耗する。今の空とちがい、彼等の見た光景はまだすり減っていない空だった。今、いくら飛行機に乗っても、彼等が感じた空を僕等は見る事ができない。


風景が摩耗するといっても、その風景自体が変化するのではない。当然ながら、受け手である我々自身が、我々の心が摩耗してゆくのである。例えば安全が保障された場所や、あるいはテレビ画面を隔てて、絶景というものに触れる機会が多い。そのような状況で出会った風景は当然、かつて飛行機乗りの冒険者たちが生死を賭けて掴みとった、たった一度きりの出会いであるところの風景にくらべて、ずいぶんと色あせて見えていることだろう。しかも我々は、テレビの中から見た風景を「すでに知っていること」としてにべもなく消化してしまう。そうなれば、本当の絶景をナマで体感したときに、体内に消化したニセモノの絶景とどうしても比較してしまい、本来一期一会であるはずの出会いを、知らずの内に冷静になって評価してしまうのでは、ないだろうか。アニメもまた然りである。


・・・私は、もちろん年齢的な問題から、アニメ視聴歴はかなり浅い。また今はほんの10年前に比べても、驚くほどアニメ視聴の環境が良くなっている。いつでも手を伸ばせば、そこにアニメがある。そんな飽和状態の中で、私も含めた現代の視聴者は作品に向き合っているのだ。果たしてそんな中で、我々はどれだけ、ひとつひとつの作品に真剣に向き合っているだろう? これもまた、”消費”の宿命を多分に孕んだ問題である。




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・”消費”に加担するということ



さて、ここからが問題である。私も、そしてこの企画に参加している他の方々も、アニメという創作物の視聴者であるのと同時に、そのアニメを記事というカタチで積極的に消化し再発信している。これはつまり、ブロガーの個人的な「ファーストインプレッション」を広く喧伝し、かつブロガーの感想という防護フィルターを他の視聴者のために作っているようなものだ。


恐らく読者は、読んだ記事を通してまず自分の「ファーストインプレッション」を相対的・冷静にかたちづくる機会を与えられ、また自分自身が抱いた意見が果たして妥当なものかどうかを判断する材料を手にしている。これはアニメというひとつの風景、ひとつの創作物を、ことさら摩耗させ、消化しようとしている行為に他ならない。ブロガーはアニメの消費を早め、その消耗に加担していると、気付くべきであると思う。少なくとも私は、そういう心づもりで記事を書いている。


ところでここにひとつの命題がある。摩耗し消費された作品は、果たしてどこまでも擦り切れて、ついにはなくなってしまうのであろうか?




芸術作品には、歴史に残るものと残らないものがある。それは作品の売れ行きや認知度とは関係なく、だ。アニメも芸術作品のはしくれである以上きっと、歴史に残るものとそうでないものがある。その境目を分けるものとは一体何か? それはまさに、消費の宿命に曝されて摩耗し切った後に、それでも純然とした輝きが残る作品なのではないか。


たとえば本当に良い音楽が、初めて聞いたときよりも2度、3度、そして何百ぺんも繰り返し聞くたびに、それまで気付かなかった新たな一面を提示し、聴く者をいよいよ虜にしていくのと同じように、アニメも「ファーストインプレッション」を”消費”したその先に、確かに何かの価値ある輝きを放てるかどうかが、その作品の本当の価値なのだと思う。




私は、ブロガーとしてアニメの”消費”に加担している以上、ただ作品を消費しては次の餌を拾い上げるのではなく、いちど消化しようとした作品の中から、”輝くもの”を拾い上げたい。自分で言ったばかりの発言に矛盾するようであるが、今の時代、文字通り掃いて捨てるほどたくさんの作品が生み出されては忘れ去られていく状況の中で、本当は”輝くもの”を持っている作品までもがこの荒波の中で埋没してゆく光景をみるのが、私はたまらなく怖いのだ。


だからこそ「現行アニメの各話感想」というメインコンテンツの中でも、その作品に秘められた真実の価値を拾い上げ、せめて読みに来てくれた読者の前にだけでも披歴することができれば、それがわざわざアニメを積極的に消費してまでブログを更新する意味があろうというものだ。


そしてその中から、本当に文化史に名を刻む作品の出現や、せめてその潮流の切れはしくらいでも、目の当たりにしたい。そういう想いで、日々アニメに向き合い、記事を書いて行きたいと思う。




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アニメは、面白い。だがそれ以上に、アニメは興味深い。


ただ作品を楽しむだけでなく、ソコから何かを掴みとるブロガーでありたい。また、このたび始動した「アニプレッション!!」に望むのも、そうした”価値の探究”である。私個人としても、また企画としても、どのような動きをご覧頂けることになるのかはまだまだ未知数ではあるが、どうかご期待頂ければ、と思う。